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中村修二教授と川口淳一郎シニアフェロー座談会全文

笑顔で話す米カリフォルニア大サンタバーバラ校の中村修二教授(左)と宇宙航空研究開発機構の川口淳一郎シニアフェロー=東京都中央区で2015年2月21日、竹内紀臣撮影

 ノーベル物理学賞を受賞した中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授を迎えた毎日新聞5万号記念の特別講演会(「不可能を可能に〜青色発光ダイオードから生まれる未来〜」2月21日開催)の後半では、中村教授と小惑星探査機「はやぶさ」のプロジェクトマネジャーを務めた川口淳一郎・宇宙航空研究開発機構(JAXA)シニアフェロー、小川一・毎日新聞東京本社編集編成局長の座談会が開かれた。それぞれ不可能とされてきたプロジェクトを成功に導いた中村さんと川口さんの対談は初めて。科学の魅力を存分に語り合った。(司会は元村有希子・毎日新聞デジタル報道センター編集委員、文中敬称略)

     元村 今日は毎日新聞の5万号記念のイベントです。まずお二人が最初に毎日新聞に登場した記事を用意しました。

    中村教授が最初に毎日新聞に登場した記事。1994年10月21日の「独創の方程式」

     小川 まず中村先生は1994年10月21日に「独創の方程式」という連載で登場していただきました。これは高輝度青色発光ダイオード(LED)が完成したばかりのころですね。今も若々しいですが、とてもシャープな雰囲気が伝わってくる写真です。

     元村 開発成功がその前の年ですよね。紙面を見てどうですか。

     中村 髪が多いな(笑い)。それくらいですね。

     元村 当時から挑戦的なまなざしが印象的です。

     小川 本当に鋭いですね。獲物をにらみつけ、狙っているかのようです。川口先生の紙面に移りましょう。2003年5月30日の「ひと」というコーナーでご紹介しました。これは「はやぶさ」の打ち上げ後でしょうか。

    川口シニアフェローが最初に毎日新聞に登場した記事。2003年5月30日の「ひと」

     川口 そうですね。打ち上げは5月9日でしたから、ちょうど打ち上げ直後ですね。

     元村 この後も、お二人には何度となく紙面に登場していただいています。今日のテーマは「不可能を可能にする力」ということです。まず小川局長から質問させていただきます。

     小川 私は今日とても緊張しています。お二人とも私は大好きでファンなんです。お会いするのは初めてですが、中村先生の本は4冊読み、「はやぶさ」の映画も2本見ました。本当にお二人とも「レジェンド」というか科学の世界のスーパースター、もし野球であればイチローさんと松井秀喜さんが並んでいるようなものです。実は、ノーベル賞などの素晴らしい業績というのは難しい内容が多く、理解しにくいことが多いのですが、お二人の研究は、中村先生の場合はスマホや信号機という役立っている分野が分かりやすく、川口先生の「はやぶさ」は、死にかけた探査機が何度も生き返り、オーストラリアのそれも狙った場所から500メートルも違わないところに帰ってくるというリアルな形で世界中を感動に導かれました。これらの成果によって、私たちは科学がすごく身近になり、興奮させられました。講演の中で、中村先生は「窒化ガリウムを使った実験をすることになったのは、博士論文を書くために」と、いわば軽い思いから始められたということを聞き、印象に残りました。そんな中村先生が「絶望した」ということはなかったのでしょうか。

     中村 絶望というのはないですね。しかし、私の場合は最初の1年は結果が出なくてどんどん落ち込みました。しかし、落ち込むと逆にどんどん集中して、もうどん底まで行ってしまえという感じになります。そして、どん底まで行けばそれ以上の底はないですから、そこからはい上がるという感じです。どん底まで行くとそこから良い発見や発明が生まれ、製品化につながりました。だいたい4〜5年で製品化までいきますが、そういうパターンを繰り返してきました。ですから、どん底といっても「絶望」というよりも集中してさらに考えますから、「絶望」という感じではないですね。そこまで落ちて自分を集中させていくような感じですね。

     小川 中村先生の本を読んでいると、実験の中で何度も大爆発が起きていますね。そのような状況で怖くなかったかということをうかがいたいのですが。

     中村 今考えれば、よくけがをせずにこられたなと思います。最初の爆発は分からずに起きていますが、それからは爆発する状況が分かっていましたので、対応もできました。それでもけがをせずによくこられたなと思います。

     元村 2〜3カ月に1度は爆発が起きるので、最初は皆が消火器を持って飛び出してきたが、やがて「ああまた中村がやっとるわい」という具合だったということですね。牧歌的といえば牧歌的です。

     中村 でも本人は必死です。今考えると大変だと思います、あの当時は。

     元村 川口先生はどん底とか絶望という経験はありますか。

     川口 ご存じのように「はやぶさ」が瀕死(ひんし)の状態になることが何度かあったので、これでもう終わりかな、と思ったことはあります。たとえば(通信ができなくなり)行方不明になったことは、「もうどうしていいか分からない」という時ですし、最後ぎりぎりまでやってきてとうとうエンジンの寿命がきてしまうということもありました。ただし、私はよく「あきらめが悪い」と言われます。実は宇宙(探査)は触れる(体験する)機会が少なく、そういう機会に自分がいられることが「幸せ」だと思っています。つまり、苦労していることが大変なのではなく、そういう機会にすら触れられないことが一番残念なわけです。だから仮にトラブルがあっても、そこに自分が携われるチャンスがあるということはなんてありがたいことか、というところが正直な感覚です。「トラブルであっても宇宙に触れられるチャンスが続いているということは、このうえないこと」という意味では私にとってはやりがいがあることでしたし、頑張れたという気がしますね。

     小川 中村先生は「窒化ガリウムの研究は博士論文を書くためだ」と話していましたが、「はやぶさ」もイオンエンジンを使った航海で、それも小惑星へ往復させるという夢のような計画だったと思います。最初に乗り出すときの心意気というのはどうだったのでしょうか。

     川口 歴史的にいうと、ある種の開き直りですね。私たちは1980年代初めくらいに「我々は宇宙開発で何をやるのか」という議論をしていて、米国がやったことをそのまま繰り返していくだけではなく、何か違うことをしなければならないのではないかとずっと考えていました。85年に(「はやぶさ」プロジェクトの出発点となる)「小惑星サンプルリターン小研究会」というのを開くのですが、実際に開発するにはちょっと距離があり、「ちょっと」というよりも随分な背伸びでしたね。実現性のあるものとしては小惑星への片道飛行で観測をするくらいはできるのではないかと計画をしたのですが、そういうアイデアは(日本が着手するより前に)全部米航空宇宙局(NASA)が持っていってしまうんですね。私たちが考えるくらいのことは、彼らにしてみればほんのわずかな予算でできてしまう。だからどんどん先にやってしまう。同じことをやっても意味がないんです。そのとき、自分たちはどういうことをしなければいけないかと考えて思いついたのが、サンプルリターンでした。(そのほかの現実的なアイデアは)全部はNASAがやってしまうので、NASAとの共同勉強会の中で、「我々は小惑星サンプルリターンをやる」と破れかぶれで言いました。誰も信用していませんでしたけどね。NASAの人も信用していないし、日本人も信用していなかったと思います。

     元村 その頃は、NASAはスペースシャトルを飛ばして、人を宇宙に送ることを定期的に始めた頃でした。かたや日本は火星探査機も計画中という時期でした。

     川口 はい。スペースシャトルが81年から飛び始めました。70年代後半から私は大学院で研究していましたが、スペースシャトルは打ち上げ秒読みの段階にあって、「スペースシャトルが飛べば世界中から使い捨てロケットなんか消えてしまう」と言われていました。一方、日本がやっていたのは1年に1度くらい小さな人工衛星をロケットで打ち上げ、成功すると皆が大騒ぎするという状況。そのギャップがとんでもなかった。(米国の状況から)このままではロケットもなくなってしまうし、宇宙開発で自分たちは何をするのかという非常に疑問符がついていた時代で、自分たちは何をするのかということを自己問答している感じでした。

     元村 どうせなら高い目標を出してしまえという感じですか。

     川口 それが開き直りですね。

     小川 「はやぶさ」は探査機というよりはロボットですよね。完全に自分で判断して動いていく。いったん死んだエンジンがよみがえってくるというのは、鉄腕アトムが生き返ってきたように感じるのですが、例えば手塚治虫の漫画のロボットなど、そういうメンタリティーはプロジェクトの中に生きているのでしょうか。

     川口 そうですね。ロボット世代というんでしょうか。確かに私は鉄腕アトムの時代です。(機動戦士)ガンダムはちょっと時代がずれていて、我々は鉄腕アトム世代であり、宇宙開発は月探査競争、アポロ計画の真っただ中という時代ですから、自然と宇宙とロボットが一緒に頭の中にあったんだと思うんです。アポロ計画が終わった後、米国は木星、土星探査に乗り出します。非常に遠いかなたの天体に、正確に探査機を飛ばすにはどうするのか、というのが一番のポイントです。だからロボットに興味を持ちました。大学の卒論ではロボットをテーマにしました。

     宇宙の誕生は137億年前の世界。誕生時の世界は目に見えません。一方、中村先生がされている研究はやはり目に見えない世界。「はやぶさ」も実は、探査機から得られる情報がほんのわずかで、目に見えない世界で飛んでいて、「(少ない情報から)こうなっているんじゃないか」と考える運用でした。私はそのあたりが中村先生の研究との共通点かなと思います。

     小川 なるほど。中村先生の本を読ませていただくと、すごいと思うのはさまざまな機械を自分で作られているんですよね。何かを買うのではなく自分で組み立てて、そこから青色LEDの発明も生まれたのですが、そのものづくりの苦労話、ものづくりにかける執念みたいなものはあるのでしょうか。

     中村 そうですね。この間、昨年一緒にノーベル賞を受賞した米国人研究者とホワイトハウスへ行ったとき、皆で「ノーベル賞をもらうのに一番何が大事かといったらやはり装置だ」という話になりました。装置を自分で作ることが非常に大事であるということです。その装置は、自分で作ったオリジナルですから、そこで生まれるものは非常にオリジナルな非常に素晴らしいものになる。ですからいろんな装置を手作りすることは非常に大事なんです。

     小川 ガスバーナーの溶接は職人級だという話も聞きました。

     中村 これは仕方なく自分で全部しなければならなかったので。以前いた会社は半導体はまったく素人で、私が半導体を始めても自分で全部しないといけなかったので。最初の10年間は仕方なく自分で全部やりました。しかし、青色LEDをやるときには当初10年間の苦労が全部生きたと思います。ですから最初の10年間の苦労というのが、そのときは非常に大変だったのですが、今から考えれば青色をやったときに全部が役に立った思います。皆さんも苦労があると思いますが、その苦労は将来役に立つかもしれない。そう思って苦労をすれば楽に感じるかなと思います。

     元村 お二人について共通してすごいと思うのは、誰もやったことがないことを目標に掲げ、それをやり遂げたというだけではなく、最初は前例がないから想像することも難しいのになぜ計画を立てられたのか、ということです。なぜ不可能を可能にできたのでしょうか。

     川口 自分自身は「できる」と思っているんです。だから「やればできる」というふうに、そういうつもりがなければ転がらないと思います。別に夢だけ見ているわけではなくて、「こうだからできるはずだ」と思っていることが先にあり、もしかしたら取り掛かる前は無謀なのかもしれませんが、そう思って取り組むことが大切なのだと思います。

     元村 どこかで「できるはずだと思っている」ということですね。

     川口 「どこかで」というより、「実際にできる」と思っているんです。100%の自信があるわけではないですし、取り組んでみるときっと問題が出てできなくなるかもしれない。けれども、それでも「できる」と思わなければ前進はないと思います。

     元村 「はやぶさ」が地球へ帰還した翌日、菅直人首相(当時)からの祝辞の電話の際、「何が大事でしたか」と聞かれた川口先生は「技術より根性だ」と答えたそうですが。

     川口 本当は技術だけではなくて、いろんなこと、考え方とかチームワークとかいろいろあり、それを説明するときりがないので、面倒だったので「技術より根性だ」と言いました(笑い)。

     小川 「はやぶさ」が帰還した時の会見で、私たち新聞記者的な視点で見ると、「はやぶさ、よく帰ってきた」と号泣するなど、そんな状態になるのかと思っていましたが、淡々と「当たり前」というような表情で記者会見されていたので、あのときはどんな心境だったのかうかがえればと思います。

     川口 私は和歌山大のインターネットの中継で帰還の映像を見るしかなかったのですが、そのときはやはりとても悲しいと思いました。「悲しい」というのは言ってみれば手塩にかけたという感じがあるものですから。そして帰還の光が消えた後、現地から「ビーコン」と言いますが、カプセル探索用の電波の信号が発信され、受信されたという報告が来たときは、ものすごくうれしかったですね。無事回収できるかどうかは分かりませんが、電波が出るということはパラシュートが開こうとしてふたが開いたということを示していて、「本当にここまでできたんだ」と思いました。その後にヘリコプターで見つかったというのは「出来すぎだ」と思っています。

     元村 「はやぶさ」はミッションの達成度について加点方式で500点満点という評価だったと思いますが、最終的に何点をつけられたのでしょうか。

     川口 くわしい方はご存じだと思いますが、小惑星表面に小型探査機「ミネルバ」を着陸させることができなかったんですね。そこだけ減点だと思っています。本当に、あれは悔しくて、未熟だったと思っています。小惑星での滞在時間が非常に短く、やむを得ず踏み切ってしまったところもありますが、今度の「はやぶさ−2」は滞在時間が長くなります。「はやぶさ−2」は、私が直接やるわけではないですが、私の次の世代が1年半の滞在中、時間をかけてきっとやってくれると思います。ミネルバだけが申し訳なかったと心残りですが、ほかは何とか及第点、というか出来すぎだと思っています。

     小川 中村先生の研究の中では、笑顔と怒りの二つの側面があると思いますが、泣かれたことはありますか。実験などで「くそーっ」という悔し涙や、一人泣いたというような経験はありますか。

     中村 いや、それはないですね。やっぱり研究っていうのはいろいろ問題があって、実験をしたら問題が出て、その問題を解いたらまた次の問題が出て、その問題をどんどん解いていくだけですから。小さいときから、いろんな問題があったらそれをなぜかって考えることが好きでしてね。研究は実際に実験してその結果が出て、なぜこういう問題が起きたかを解いて、それをエンドレスに続けていくだけですから、そういうのは小さいころから好きでしたから、悩みだとかそういうことはあまりないですね。

     元村 小さいころのお話が出たところでお二人にお聞きしたいのですが、今のお仕事につながる原体験になるような体験があれば教えてください。

     川口 私は小さいころから宇宙が好きだったんです。「好きだったかと聞かれると好きじゃなかった」とあまのじゃくの答えをすることもありますが。一方、宇宙で仕事をするということを想定していたわけではありません。小さいころの思い出というと、「暦を作りかえる」ということを小学校2年生のころ考えていました。暦って変でしょう。つまり、28日の月もあれば31日の月もあって不規則ですし、そこで(全体的に規則性のあるものを)作れないかと考えたことがありました。それがスタートです。また、世界で人工衛星が宇宙へ飛び出したころなので、「人工衛星ってどうやって飛んでいるのか」とか「(人工衛星は地球の重力の影響で)ずっと落ちている」という話を模造紙に書いて研究発表したこともあり、それも原体験ですね。もっとも宇宙が好きでしたが、日米の差はとんでもない差があって、アポロが月で着陸した後に日本の「おおすみ」という人工衛星が初めて打ち上げられるという状況。この差はかなり大きく、宇宙で仕事をするかどうかについては私は確信はありませんでした。

     元村 暦を作り変えようというアイデアは自分で考えたのですか。

     川口 そうですね。ちょっと工夫すると、なんかできそうじゃないですか。誰が決めたか分かりませんが、うまくつくると分かりやすいカレンダーができるんじゃないかと。結局できませんでしたが。

     元村 たとえば人工衛星がどうして飛ぶのかなという興味から、飛行機や乗り物系に行く人もいます。川口先生が宇宙へ行ったのは。

     川口 確かに乗り物系ですね。小さい頃から私は言ってみれば乗り物系、理系ということくらいしか決めていませんでした。大学でロボットを学び、宇宙開発が止まらないうちにちょっとやってみようということで、この道に入ったんです。

     元村 中村先生はいかがですか。

     中村 私は小さいころからボーッといろいろ考えるのが好きで、先日も愛媛県の佐田岬の先端にある海の近くへ行きましたが、そこは小学校1年生まで暮らした土地ですが、砂浜で海のほうを見るのが好きなんですね。小さいながらいろいろ考えるんです。今でも覚えていますが、自分でボーッと考えるのが好きで、そのまま大きくなった感じでして。小学校6年生ごろに大きくなったら科学者になりたいって思いました。中学生くらいからは物理学者になりたかったんです。夢だったんです。理論計算が好きでしてね。ところが、高校を卒業するとき先生から「物理をやっていたら飯が食えないから工学部へ行け」と言われ、それで工学部になったわけです。実際は今でも物理をやりたい。川口先生を見たらうらやましいですよね。物理計算で衛星を飛ばしてとかね。うらやましい限りです。

     小川 中村先生の本に、故郷の海の青が好きで、今も青色が好きで、それが青色LEDになったという内容があったので、そういうことをお話しされるかと思いましたが。

     中村 それはたまたまそうですけどね。でも、やっぱりずっと物理が好きでしてね。今でも高校を卒業するときの決断は失敗したなと思っています。

     小川 やはり科学の世界では偶然がいろいろあると思います。「はやぶさ」でも多かったと思いますが、そういう偶然に導かれたみたいなことは川口先生は何かありますか。

     川口 偶然がかなり支配していると思います。「運が良かった」というと単純な話なのですが、幸運に恵まれたといいますか。たぶん中村先生も同じだと思いますが、いつもどこかに判断ポイントがあるんです。判断ポイントのとき、五分五分でどっちを選ぶかというとき、そのときにある種の選択をするとそれが出口につながっているということがあって、これは幸運としか表現はできないんですけれど、幸運に恵まれたと本当に思っています。

     小川 中村先生はいかがですか。(青色LED開発のカギである)ツーフローの発想はどこで思いつきましたか。お風呂の中で浮かんだということはないのでしょうか。

     中村 それはないです。毎日毎日装置を改造し、徐々に進んだというのが正解ですね。だから1年半かかりました。毎日毎日改造して。これは職人(の仕事)ですよね。毎日改造して反応させて、なぜうまくいかなかったかを考え、また次の日に改造して、ということを続けて1年半でできたということです。ある日、ひらめきがポンと出てきて成功したというもんじゃないですね。

     小川 どこまでも新聞記者泣かせの中村先生ですね(笑い)。

     元村 「寝ても覚めても」というのがピッタリな情熱でツーフローを開発された中村先生と、7年間辛抱のミッションを継続した川口先生。それぞれ成功されましたが、逆に開発やミッションが終わったとき寂しくなかったですか。

     川口 私は幸か不幸かというか、「はやぶさ」が帰ってきたら忙しくなったので大丈夫でしたが、チームの中にはやはり支えがなくなり、しばらく体調を崩している人はいました。「あるとき突然終わる」というのは考えられないことなんです。その前日までは本当にピークに達しているわけで、徹夜のようなことも繰り返しながらでしたから。しかし、翌日からそこは何もないことになる。きっと体が自分では理解できない形になってしまうということがあって、私は忙殺されて考える暇はなかったですが、そういう人はチームにいました。

     元村 中村先生はどうでしたか。「世界一の釜」を作ってしまった後は。

     中村 93年に、ノーベル賞を受賞した高輝度青色LEDができたのですが、その後はレーザーダイオードですね。ブルーレイDVDに使われるブルーレイダイオードを99年に製品化したのですが、そこで研究が終わって退屈になったので、新しいところで苦労したいと考えて米国へ移ったわけです。米国では言葉の問題もありますし、いろいろ苦労するので、やっぱり苦労しないと人間というのは向上しないと思いました。最初からやり直すということで米国へ行き、米国で企業のサラリーマンではなく大学教授というまったく新しいことでいろいろ苦労しました。それが恐らく脳の活性化にもなりました。また、ベンチャーも始めましたし、米国に移って裁判もありましたから、米国へ移ってからは大変でした。

     小川 素朴な質問になりますが、尊敬する人はいますか。

     川口 私は「いない」と答えたり、「尊敬する人は皆さん尊敬する」というのですが、私が最初に所属した文部省宇宙科学研究所(当時)はとても変な人ばかりの集団で、どの人を見ても素晴らしい変人ばかりでした。もう甲乙つけがたいくらいなんです。私の恩師2人は秋葉鐐二郎先生と松尾弘毅先生ですが、お二人とも素晴らしい人で、いろいろ励まされたことがありました。宇宙では事故やトラブルは絶えず、あるとき私が担当していたかなり重要な部分で失敗をして事故究明の委員会ができ、私も動員されて体調がおかしくなったほどでしたが、そのとき松尾先生から言われたことがあります。「しばらく後ろ向きのことをしてもらうけどな」と。つまり、本当は違うところを目指せって言ってくれていたんですよね。私はとても救われたなと思っています。一方、「座右の銘」などは持たない主義で、ちょっとあまのじゃくなんですけれど、「人のふり見て我がふり直せ」ではないなと思っていて、そこはオリジナルでいきたいなと考えています。

     元村 川口先生は今朝(2月21日)の毎日新聞朝刊のインタビューに答えていただいていて、一番印象に残った言葉は「先代のコピーにならない人材を育てる。そういう社会であってほしい」という部分でした。そういうすごい素晴らしい上司に恵まれたとしても、コピーにはならないと。

     川口 自分もそのように育ったのかなと思っています。組織というのは、たぶん数十年しか普通は続かないものだと思っています。そういう意味で毎日新聞は100年を超えているというのは素晴らしいことです。たぶん創業者が意欲を持って取り組めば数十年はその組織は大丈夫だと思います。だから、会社というのは数十年くらいの歴史が大部分なのではないでしょうか。それは2代目にあたる人が、1代目が素晴らしければ素晴らしいほど、その殻を破れないからだと思います。私が先輩が変人でよかったなと思うのは、その変人は「自分の内側で生きろ」と言わなかったのです。だから、私も次の世代にはそうあってほしいと思います。「はやぶさ」のようなことをやっていればいいのではなく、もっと違うものを打ち上げるというくらい変人であってほしいし、そういう思いを込めてインタビューには答えさせていただきました。

     元村 中村さんは、先ほどの講演の謝辞の中で最初に日亜化学工業の創業者、小川信雄さんを挙げていましたね。

     中村 そうですね。やはり私のLEDができたのは小川さんが投資してくれたからです。一番感謝しています。彼がいなかったらできなかったですからね。また、私も尊敬する人は川口先生のように「特にはいない」ですね。「どうしても」と言われたら、(LEDに重要な超格子を発明した)江崎玲於奈さん(ノーベル賞受賞者)ですね。

     元村 今日はお二人が初めて顔を合わせるという幸運な日ですが、せっかくですからお互いに質問したいことがあれば披露していただけますか。まず川口先生から。

     川口 試行錯誤の実験では粘らなければならないことは確かです。簡単にあきらめてはいけない。しかし、うまくいかなかったら思い切って方向を変えるという判断は必要なのではと思うんです。そういう観点から考えると、どのくらい粘ってどのくらいであきらめるかということについて何か目安はありますか。

     中村 難しい質問ですが、私たちの分野では5年が目安でしょうか。私は大体5年くらいで製品化までいっています。国の予算も5年くらいですよね。川口先生の分野は5年では短すぎると思いますが、私の分野は5年ですね。私が川口先生に聞きたいのは、「はやぶさ」など探査機の軌道です。宇宙の軌道計算は、物理で計算すると思うんですけど、理論的にどのくらいの精度で合うのでしょうか。「はやぶさ」にいろんな星の重量や太陽などの影響があり、どこまで物理計算で正しくできるのか知りたいです。

     川口 あんまり大したことはないんです。

     中村 そうなんですか。

     川口 その質問に対する正しい答えとしては、「数学モデルが間違っているということは(まだ)発見できていない」ということになります。変な言い方ですが、今は数学モデルを使って探査機の飛ばし方を考えているわけですが、本当はもっと違うところに本質はあるんだと思っています。モデルは正しいとは思っていますが、実は(詳細に)観測すると違うものが出るかもしれないんですよね。だから実は、物理の正しさがどこまで確かかということは、今後の観測によって更新されるときが来るのではないかと思います。このため、残念ながら我々が扱っている領域は精度の悪い世界にいることになり、その物理原則を検証する段階にまだ至っていないということです。現在は、「誤差だらけの世界」で生きていることになり、そこが残念なところです。

     中村 あまり計算だけでは合わないので、自分でエンジンの噴射とか、そういうことで調整しながらやっているということですか。

     川口 そうですね。誤差などにどう取り組むか、誤差だらけかもしれないところから、どうやってものを探し出すかということをやっていて、そのような研究をシステム制御論と呼んでいます。

     中村 僕もよく言うのですが、やはり物理とか数学に100%はありません。だから(川口先生の)ずれているという話を聞いて「なるほど」と思いました。世の中に100%はないですから。数学とか物理は全部「仮定」なんですよね。

     川口 本当は未知の物理がまだあるんですよね。

     中村 そうなんですよね。それを発見したらノーベル賞ですね。

     元村 二人の心が一つになったようですね。小川局長、最後に何か質問はありますか。

     小川 「はやぶさ」にLEDは使っているのでしょうか。

     川口 使っていますかね。どこで使っているかと、ぱっと出てこないですね。(注・講演会後、川口氏より「LEDは、はやぶさでは近赤外線分光計=NIRS=に使った。また、小惑星着陸時に地表までの距離を測るレーザーレンジファインダーに、LEDそのものではないがLEDと同じ原理で発光する半導体レーザー=LD=が使われた」との追加情報がありました)

     元村 お二人は、子どもたちが「こんな人になりたい」とあこがれるような科学者像を見せてくださっていると思います。最後に若い人、それから子どもたちに「不可能を可能にする」コツや、アドバイスがあればうかがいたいのですが。

     川口 私は若い人にはオンリーワンになってほしいと思います。なかなかできることではないかもしれません。ともすれば科学五輪などでナンバーワンが目指すべきもの、と思われがちですが、そうではなくてオンリーワンの存在を目指してほしいと思うのです。そのためには、やはりオリジナリティーが必要ですし、その心がけがきっと日本を支える力になるんじゃないかな、と思っています。

     元村 オンリーワンでいるのは勇気が必要ですね。

     川口 必要ですし、オリジナリティーを考えるということは周りに迎合しないということの裏返しでもあります。言ってみれば変人ですよね。しかし、その迎合しないということは大事なことだと思っていて、生きていくのは大変かもしれませんけど頑張ってほしいと思います。そして「偶然」というのも大事です。経済状況などを背景に、出口が見える研究を求められますが、私は逆に「出口が見えたらもう研究しなくていい」と思っています。偶然による発見を「セレンディピティー」と呼びますが、エンジニアリングも物理もそうだと思いますし、それが楽しみだと考えられる環境をはぐくんでほしいと思います。

     中村 私が言いたいのは、やはり好きなことを見つけて、好きなことをやってほしいんです。たとえば、現在の日本の大学生くらいの世代で「自分の好きなことは何ですか」と聞かれてすぐに答えられる学生はほとんどいないと思う。私の学生時代もそうでしたから。日本の教育っていうのは大学受験だけ。だから大学受験でいい成績をとることが夢のようになっていて、本当の自分の夢っていうのが分からないわけです。大事なのは自分の好きなことを見つけて、それに向かって頑張って勉強して、仕事も好きなこと目指すこと。好きなことをやればいろいろな問題や苦労があっても、自分自身は苦労とは思わないですから。きっと川口先生も好きなことをやっているので、「はやぶさ」などが実現できた。好きなことを見つけることが若い人は一番重要ですよ。好きなことを見つけることが若い人にとっては一番大事であり、それに向かって勉強あるいは仕事をしてほしいと思います。

     元村 ありがとうございます。最後に今後の毎日新聞について小川局長から報道機関としてできることをお願いします。

     小川 私たちは「はやぶさ」を飛ばすこともできませんし、青色LEDを作ることもできませんが、それらに携わった人たちの苦労や感動を伝えることはできると思うんです。会場には若い方や子どもさんもいらっしゃいますが、そんな皆さんが「あのとき二人の先生を見た」というきっかけから次のノーベル賞学者が出るような、そんな物語のお手伝いをしたいと思っています。また、「はやぶさ−2」は2020年東京五輪の後に地球へ帰ってきます。その後の宇宙探査の計画がないことを川口先生も心配されていますし、中村先生の業績もあり、やはり科学技術の重要性を報道を通じて社会に訴え、予算の問題を含めて社会の理解を広げることができればと考えています。

     元村 ありがとうございました。あっという間に時間が過ぎてしまいました。私たちは今日、このお二人のビッグ対談に参加できたことを心から喜んでいます。中村先生、川口先生、どうもありがとうございました。

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