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2 中央アジアの地に残る抑留者の足跡 タシケント

日本人抑留者ゆかりの展示品が並ぶ資料館で、展示品の説明をする館長のジャリル・スルタノフさん=ウズベキスタン、タシケントで2015年8月9日、垂水友里香撮影
タシケントにある日本人抑留者墓地。夕日に照らされ、墓石の表面に彫られた埋葬者の名前が浮かび上がる=ウズベキスタンで2015年8月、垂水友里香撮影

 鉄くずを固めて延ばして作ったスプーン、手作りのゆりかご−−。中央アジア・ウズベキスタンの首都タシケントにある小さな資料館に、旧日本軍兵士らゆかりの品々がひっそりと展示されていた。資料館は、ウズベク人の元技師、ジャリル・スルタノフさん(70)が旧ソ連から独立した1991年から資料を集め始め、私財を投じて98年に開いたものだ。

 旧ソ連は、第二次世界大戦が終わった後、満州(現中国東北部)や朝鮮半島北部にいた日本兵ら約60万人を連行し、強制的に自国や衛星国のインフラ整備に従事させた。シベリア地域に多く抑留されたことから「シベリア抑留」と呼ばれるが、収容所は広大なユーラシア大陸各地に設けられ、ウズベキスタンでは約2万3000人が、発電所やダム、住宅などの建設に使役された。

 ウズベクが誇る国立ナボイ劇場(1947年完成)もその一つ。現在も荘厳な姿を保つ劇場の壁には、ウズベク語と日本語、英語、ロシア語で、次のようなプレートが掲げられている。

 「1945年から46年にかけて強制移住させられた数百名の日本国民が、このアリシェル・ナヴォイー名称劇場の建設に参加し、この完成に貢献した」

 プレートは独立後の96年に設置されたものだ。ウズベキスタン側は、あえて「捕虜」でなく「日本国民」という言葉を使用した。「日本とウズベキスタンは戦争をしたことがない」との理由からだという。

 ジャリルさんは「ソ連時代は、抑留者の資料を集めることも、口に出すことも制限されていた」と振り返る。シベリア抑留は、戦争が終わったら捕虜はすみやかに帰国させるよう規定した国際法に反する行為で、東西冷戦下、旧ソ連政府はその実態を隠し続けた。ソ連が解体することになる91年以降、抑留者名簿が日本に引き渡されるようになったが、今も全容は明らかになっていない。

 ジャリルさんが抑留者に関心を持ったのは、10代の頃、友人の父親から、工場で働く抑留者の話を聞いたのがきっかけだった。古里から引き離されて強いられた労働ながら、抑留者たちの働きぶりは、当時からウズベク人の称賛を集めた。それが今も続く、ウズベク人の「親日」感情の原点と言える。ジャリルさんが資料館で上映するため制作したドキュメンタリー映画でも、登場するウズベク人たちは口をそろえて「日本人はとても勤勉だった。尊敬する」と語っている。開館当初、資料館に足を運ぶのは日本人ばかりだったが、現在はウズベクの生徒たちも学校単位で訪れるようになった。

 資料館を見学した後、同館前にある日本人抑留者の墓地に足を運んだ。白い墓石が夕日に照らされ、表面に彫られた抑留者の氏名や出身地が浮かび上がっていた。ウズベキスタンに抑留された日本人のうち800人以上がこの地で死亡した。タシケントの墓地には、79柱が眠っている。

 日本を出発する前に取材した、ウズベキスタンの日本人墓地に2007年以降、墓参を続けている元抑留者の菊地敏雄さん(89)の言葉を思い出した。

 「私は15歳の時に兵隊に志願したが、それまで人を殺すことと立派に死んでいくことしか教えられなかった。そういう教育を若いうちから受けさせられたことが残念でならない。ウズベクの土になっている仲間がどれだけ日本に帰りたかったことか……。私は命が続く限り、墓参を続けようと思います」=つづく【垂水友里香】

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