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書状33通発見 重臣に指示や叱責 

 豊臣秀吉が重臣の脇坂安治(わきざか・やすはる)に送った書状33通がまとまって見つかった。内容を解読した東京大史料編纂(へんさん)所と兵庫県たつの市が21日、発表した。天下統一を進める秀吉が細かい指示を繰り返していたことが分かるという。同編纂所の村井祐樹助教は「子飼いの家臣を厳しく叱責しながら、育てた様子がうかがえる。秀吉の細かい性格を裏付けた意味でも貴重な史料」と評価している。

     安治は、秀吉が織田家最古参の柴田勝家を破った賤ケ岳(しずがたけ)の戦いの「七本槍(やり)」の一人として知られ、後に子孫が龍野藩主を務めた。文書は安治をまつる龍野神社(同市)が所蔵していたが、1965年ごろに流出し、2012年に所有者宅の火災で水損した。たつの市は14年に所有者から購入し、同編纂所の協力を得て、約1年間かけて修復、内容を解読した。

     書状は本能寺の変から2年後の1584(天正12)年から約10年間にわたっており、秀吉が天下統一を進めた時期と重なっており、特に初期の文書がまとまって見つかったのはまれという。

     秀吉が北陸で佐々成政を攻めた1585年7月には、京都御所などを建設するため材木担当を命じた安治が出陣を望んだことに対し、「由断つかまつり候段、沙汰の限り候」(油断しているのは、何ともしがたい)と非難し、「曲事たるべく候」(けしからんことだ)と叱責した。

     さらに、同じ月に2通の書状を送り、材木奉行をしっかり務めるよう念を押したほか、淀川に橋をかけるため、柱60本を送るように命じるなど自ら具体的な指示を出していた。

     同年の別の文書では追放を命じた家臣をかくまわないよう指示。「自分は甘くない」という趣旨の文では「信長の時の如(ごと)く」と、かつての主君の織田信長に「公」を付けず呼び捨てにしていた。関白となった時期で、格上になった当時の思いが反映されている可能性があるという。

     また、1592年の朝鮮出兵の際の書状には、北京を攻略したという知らせを待つとの内容が記されていた。【川畑展之】

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