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核被害の悲惨さを訴え続ける被爆者の声に耳を傾け、平和と核廃絶を求める思いを伝えます。

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’10夏 死の灰の脅威、今も――大石又七さん

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<核のない世界を documentary report 105>

展示された第五福竜丸の前で、当時を語る元乗組員の大石又七さん=東京都江東区で2010年7月18日、手塚耕一郎撮影 拡大
展示された第五福竜丸の前で、当時を語る元乗組員の大石又七さん=東京都江東区で2010年7月18日、手塚耕一郎撮影

第五福竜丸の元乗員訴え

 「ビキニ事件が示した核の脅威は今も続いている」。1954年3月、米国が太平洋で行った水爆実験で放射能を含む死の灰を浴びた第五福竜丸の乗組員の一人、大石又七さん(76)=東京都大田区=は言葉に力を込めた。残された時間で何ができるのか。自らに問いかけながら次世代に語り続けている。

 大石さんは今年5月、ニューヨークで開かれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議を機に、死の灰を浴びて以来初めて米国の土地を踏んだ。「最後の機会になると思った」。この国の人々にどうしても言いたいこと、聞きたいことがあった。

 「ビキニ事件を知っていますか?」。持参した英語のアンケート。集めた回答の多くは「知らない」だった。予想はしていたが、厳しい現実。知られていない背景には、当時の政治状況などから日本が米国に対して十分に主張してこなかったことがあると考えた。

 事件後、乗組員の多くが被ばく者として差別・偏見を受けたことも、乗組員による訴えの機会を封じ込んでいった。「ほっといてくれ」「評論家気取りか」。事件を伝え始めた大石さんに対してかつての同僚からも厳しい言葉が浴びせられた。

 半世紀がたち、乗組員の半数以上が肝臓がんなどで亡くなった。自身も17年前に肝臓がんを患い、今も肺に腫瘍(しゅよう)がある。不整脈などもあり、毎日約30種類の薬を飲みながら、クリーニング店を営む。「多くの仲間が被ばくによって苦しんで死んだ。無責任な事件処理は許せない」と憤る。

 明るい話題も。来年3月に米で著書「ビキニ事件の真実」の出版が決まった。大石さんの講演を聴いた米の平和団体が興味を抱いた。「『今ごろになって』とも思うが、知ってもらうことが一歩」と表情を和らげる。

 週2~3回、都立第五福竜丸展示館などで次の世代に語り続けている。「私たちは戦争でなく、核実験での被ばく者です。このような危険は今も増え続けている。防ぐには核廃絶しかない」。広島・長崎の被爆者と目指すものは同じだ。<文・北川仁士/写真・手塚耕一郎>

ことば

ビキニ環礁の水爆実験

 1954年3月1日未明、米国が太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で実施した水爆実験により、約160キロ離れた地点で調査操業中だった静岡県焼津市の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員23人が放射能を含んだ「死の灰」を浴びて被ばくした。水爆の威力は広島に投下された原爆の1000倍とされる。この年9月23日、無線長の久保山愛吉さん(当時40歳)が急性放射能症により死亡。その後、肝臓がんなどで14人が死亡した。他にも「死の灰」を浴びた漁船は相当数にのぼるとされる。当時、第五福竜丸は危険水域の外で操業していたが、日米政府は総額200万ドル(当時で約7億2000万円)の見舞金支払いで政治決着した。事件をきっかけに原水爆禁止運動が始まり、世界に広がった。00年には被ばく治療によりC型肝炎を患ったとした元乗組員への船員保険適用が認められた。船についてはその後、保存運動が起き、東京都江東区の都立第五福竜丸展示館で保存・展示されている。

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