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音楽玉手箱

ペギー葉山/下 戦後ジャズと日本歌謡つなぐ=専門編集委員・川崎浩

 「イッツ・ビーン・ア・ロング・ロング・タイム」……「お久しぶりね」という邦題でも知られる米国のスタンダード曲がある。かわいらしいポップソングだが、終戦の1945年、帰還兵を待つアメリカ国民に浸透し、ビング・クロスビー盤など続々とチャートイン、大スタンダードとなった。

     このころ、後のペギー葉山、小鷹狩(こたかり)繁子は12歳になろうかという時期である。福島の疎開先から、姉の疎開先である宮城県・鳴子に、母と移っていた。「ギューギュー詰めで乗り換え乗り換え。でも、汽車の中は皆、優しかった。戦争が終わり、ホッとした雰囲気が満ちていた」とペギーは思い出す。92年に発表した40周年記念アルバムが「イッツ・ビーン・ア・ロング・ロング・タイム」になるとは、想像すらかなわないころである。

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     一家で東京・中野の家に戻り、46年4月、青山学院中等部に入学。親友の紹介でキャンプで歌い始め、キングレコードからペギー葉山として「ドミノ」でデビューするのは、52年11月。同じキングの江利チエミは、同年1月に15歳で「テネシーワルツ」でデビューした。この2人は、その後、民謡歌謡を歌い、ミュージカルやテレビドラマなどにも出演と、大変よく似た芸道をたどることとなる。

     当時、日本の大衆歌謡の作家は数少なく、大衆の求める生き生きとした楽曲を生み出せる環境はほとんどなかった。ジャズブームも後押しし、デビュー曲はおのずと米国曲のカバーとなった。雪村いづみもテレサ・ブリュワーの「想い出のワルツ」がデビュー曲である。この流れは、ロックンロール時代まで続く。「日本独自」の音楽環境が育つのは、フォーク、GSや演歌歌謡曲が生まれる65年あたりまで待たねばならない。

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     58年11月、NHK高知放送局の開局記念番組で「南国土佐を後にして」をペギーに歌わせる話が持ち上がった。「一人前のジャズ歌手気分でいたから、民謡演歌なんて絶対歌わないってわがまま言ってた。誰かに『好きな賛美歌みたいに歌えばいい』って言われ『なるほど』と歌った」。その番組は全国放送され、無名のご当地ソングは一気に全国区へ。すぐに録音し59年5月には発売。1年で100万枚、累計200万枚という戦後史に残る大ヒットとなる。

     「これで心を入れ替えたわ。歌にジャンルはない、人を感動させられればいい歌だって」と名曲に感謝する。後に、この歌の原曲が、高知出身者が多く「鯨部隊」と呼ばれた陸軍歩兵連隊の望郷愛唱歌だったことを知り「私が歌うのは義務だったのね」と語るようになる。

     戦後大衆音楽界が、戦時歌謡、ジャズなど洋楽、演歌的な民謡歌謡など複雑にからみ合いながら形成されていったことが、胎動期にトップ歌手だったペギーの姿だけでうかがえるのである。

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     57年、ベニー・グッドマン楽団が初来日した折、羽田空港でウエルカムフラワーを渡したのはペギーだった。楽団一行にピアノの名匠ハンク・ジョーンズの姿があった。ほぼ35年後、40周年記念アルバムを制作しようという段になり「ペギーの原点のジャズアルバムにしよう。ぜひ名人ハンクに頼もう」とハンクとの縁を取り持ってくれたのは、旧知の仲で海軍軍楽隊出身のテナーサックス奏者・尾田悟だった。スタンダード集の「イッツ・ビーン・ア・ロング・ロング・タイム」は、この年のジャズボーカル賞を多数獲得した。ハンクが2010年、尾田が16年、そしてペギーが17年4月、戦後ジャズと日本歌謡をつないだ3人は旅立っていった。=次回は7月26日掲載

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