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島のエアライン

/59=黒木亮 古屋智子・画

 ◆あらすじ

     熊本県と地元市町、民間企業の出資による第三セクター・天草エアラインが設立。平成十二年三月に開業したが、資金繰りや同機体トラブルなど課題は尽きない。平成二十六年六月、吉村孝司が三代目社長に就任し、ノルディック・エイビエーションから新機材ATR42導入の準備が進められていた。

    =古屋智子・画

     小学生の娘と夕食のカレーライスを作っていた天草エアライン整備部課長代理の稲澤大輔は、大阪航空局の検査官がATR42の受領に必要な限定変更申請書を急いで作ってくれといっていると連絡を受け、着替える時間も惜しかったので、そのままの恰好で会社に行くことにした。

     妻が仕事からまだ帰っておらず、小学校一年生の娘を一人で家に残しておけないので、シルバーの日産ステージアに一緒に乗せた。

    「おお、稲澤君、ご苦労さん! 大変だねえ」

     浅黒く、大柄な稲澤が、Tシャツに短パン、ビーチサンダル姿でオフィスに現れると、社長の吉村らが目を丸くした。

     茜色の夕陽がさす滑走路では福岡行きの107便が飛び立つところで、まだ十人以上の社員が働いていた。

    「山口さん、ちょっと悪いけど、娘を預かってもらえる?」

     デスクでベテランCAの山口亜紀(熊本市出身)が手作りの機内誌『イルカの空中散歩』の編集作業をしていたので、声をかけた。

    「ああ、いいですよ。……ジュースでも飲もうかぁ?」

     小柄な山口は、稲澤の娘に笑顔で話しかけ、大阪線で配っている紙パックのジュースを持って来た。

     同じ頃――

     シンガポールのホテルの一室で、天草エアラインの機長と副操縦士が、英文のマニュアルを見ながら、訓練の予習をしていた。

     赤道直下のシンガポールは、淡路島とほぼ同じ面積を持つ常夏の国で、色とりどりの花が咲き乱れ、華人、マレー人、インド人、欧米人など雑多な人種の人々が通りを行きかっている。

    「……だからこの場合、スラスト・レバーをクローズにするよね?」

     丸テーブルの上に開いたマニュアルの一箇所を指さしながら、ポロシャツにチノパン姿の年輩の機長がいった。

    「そうですね」

     手元に開いた同じマニュアルを見つめながら、三十代の副操縦士がうなずく。

    「で、ディスエンゲージメント(解除)すると」

     自動操縦装置を解除するということだ。

    「それからエンジン・スタート・レバー、カットオフだね」

    「はい」

     ATR42-600の操縦訓練がシンガポールにあるATR社の訓練センターで始まっており、二人は近くのホテルに宿泊し、訓練と予習・復習に明け暮れていた。

     部屋の壁には、大きな紙に印刷されたATR42の操縦席のパネルがセロテープで貼られている。ATR42-600の操縦席は、アナログ計器を用いず、ブラウン管と液晶のディスプレイに情報を集約した「グラスコクピット」で、エアバスのコンセプトである。

    「で、ナンバーワン(左エンジン)の状態をチェックすると」

     副操縦士の言葉に機長がうなずく。

     明日予定されているのは、フライト・シミュレーターによるノン・ノーマル・プロシデュア(異常事態の対処訓練)だ。

     予習していたのは、左エンジンが停止した場合の対処の手順である。

    「そのときに反対側を……あれっ、これってどうだったっけ?」

     機長がそばに置いてあった別のマニュアルを手に取って開く。

     ATR42は、ダッシュ8に比べて、よりコンピューター化され、パネルのディスプレイの情報量も多い。

    「えーと、少し違ってませんかねえ?」

     書き込み用のシャープペンシルを手にした副操縦士が、英文のマニュアルのページを繰る。

    「ん? どっかで勘違いしたかなあ?」

     機長は手にしたマニュアルのページを急いで繰って、真剣な視線を走らせる。

     ペアで訓練を受けている二人は、毎日二時間以上一緒に予習・復習をしていた。

     同じ時期に、日本エアコミューター(JAC)の永野英治機長らもATRの訓練センターで訓練を受けていた。訓練期間は四十日間である。

     翌日――

     天草エアラインの二人のパイロットは、フライト・シミュレーター訓練に臨んだ。

     ATR社の訓練センターは三年前にオープンしたばかりで、市街地から一五キロメートルほど北のセレター空港のそばにある。

     一帯はセレター航空産業団地で、ATR社のほか、プラット・アンド・ホイットニー(航空機エンジン・メーカー)、エアバス・ヘリコプターズ、ヴェクター・エアロスペース(エアバス系の航空機整備会社)などの会社が軒を連ね、シンガポールの航空産業のハブになっている。

    「Can you program the FMS? (FMSに入力してくれますか?)」

     肩章の付いた白い半袖シャツ姿で操縦席にすわった二人のパイロットの背後から教官がいった。インドネシア系かマレー系と思しい、浅黒い肌の男性である。

    「イエス・サー」

     副操縦士は、自分の席の左にあるFMS(飛行管理装置)のCDU(コントロール・ディスプレイ・ユニット)のキーボードを押し、出発空港、現在の駐機スポット、到着空港、飛行ルート、機体重量、燃料重量、巡航高度、滑走路、離陸推力などの情報を入力していく。

     すでにAPU(補助エンジン)が起動しているというシミュレーションで、コクピットは、ゴオーッという低い騒音に包まれている。

     機長は目の前のパネルで無線の周波数を合わせ、副操縦士は頭上のパネルのスイッチやつまみをひねって、離陸の準備をする。

     準備が一通り終わると、二人のパイロットはヘッドセットとシートベルトを装着した。

     打ち込んだデータにもとづいてFMSが弾き出した離陸に関する速度などの確認に入る。

    「V1(離陸決定速度)、ワン・ゼロ・ファイブ(一〇五ノット=時速約一九四キロメートル)」

    「ワン・ゼロ・ファイブ」

     FMSの画面を見ながら副操縦士が数字を読み上げ、機長が復唱して確認する。

    「VR、ワン・ゼロ・ファイブ」

    「ワン・ゼロ・ファイブ」

    「V2、ワン・ワン・ツー」

    「ワン・ワン・ツー」

     二人の目の前のパネルの液晶ディスプレイが、青、緑、白、黄色、赤などに発光し、どこかの都市の夜景のようである。

     やがてエンジン始動の準備が整った。

    「エンジン・スタート・チェックリスト」

     機長がいい、副操縦士が復唱し、ラミネート加工したチェックリストを取り出す。

    「フライト・デック(操縦席全般)?」

    「チェックト(確認済み)」

     副操縦士がチェック項目を読み上げ、機長が一つ一つに返事をする。項目によっては、副操縦士も復唱する。

    「デパーチャー・ブリーフ(出発のためのブリーフィング)?」

    「コンプリート(完了)」

    「バッテリー・マスター(電源スイッチ)?」

    「オン」

    「アルティメーターズ(気圧セット)?」

    「ワン・ゼロ・ワン・スリー(一〇一三)ヘクトパスカル」

    「パーク・ブレーキ(駐機用ブレーキ)?」

    「オン」

    「フュエル(燃料)?」

    「ファイブ・ポイント・ファイブ・サウザンド(五五〇〇ポンド)」

    「シート・ベルト・サイン?」

    「オン」

     確認が終わると、機長が席の右手にあるスラスト・レバーを前に倒し、右のプロペラ、左のプロペラの順でプロペラを回転させる。

     目の前のディスプレイの数字が目まぐるしく回転し、エンジンの出力や回転数がぐんぐん上昇していることを示す。

     ブオォーン、ブオォーン……

     プロペラの騒音が聞こえる中、二人のパイロットは「プレ・タクシー・チェックリスト」で、油圧、解氷装置、エンジン・ポンプ、フラップなど、十数項目を復唱しながら確認する。

     フロントグラスの先の風景が動き、飛行機が滑走路へと移動していることを示す。滑走路の左右の芝生が、緑の島のように見える。

     二人のパイロットは手早く「ビフォー・テイクオフ・チェックリスト」で自動操縦装置やトランスポンダー(無線中継機)などの状態を確認する。

     フロントグラスの真ん前に、滑走路の白いセンターラインが真っすぐに伸びているのが映し出された。

     機長がスロットル・レバーをぐっと前に倒すと、機の速度が増し、プロペラの回転音も上がり、灰色の滑走路がぐんぐん後ろに流れ始める。

    「VR!」

     副操縦士のコールアウト(数字の読み上げ)を合図に、機長が操縦桿を引いた。

     ダッシュ8に比べ、ATR42は重量が重く、エンジン出力も大きいので、操縦感覚も微妙に違う。

     機が上昇を始め、地平線があっという間にフロントグラスの下に沈んだ。操縦席左右の窓に陸地が遠ざかっていく風景が映し出される。

    「フラップ・ゼロ」

     高度が四〇〇フィートに達したところで、副操縦士がフラップを閉じた。

     機長が自動操縦装置のつまみを回し、高度を一四〇〇〇フィートにセットする。

     ふいに機体が左側に流れ始めた。

     背後の教官がそばの壁のタッチ・パネルを操作し、左エンジンが停止した状況を作り出したのだ。

     機長は足元のペダルを踏み込み、方向舵を動かして、機体を真っすぐに戻す。

    「エンジン・フェイリャー・シャットダウン・チェックリスト」

     副操縦士がコールし、二人で予習した操作手順を始める。

     この日はほかに、機内の与圧や空調の故障への対処訓練が行われる予定である。

     八月十三日――

     南仏トゥールーズの空は青く澄み渡っていた。

    「コングラチュレーションズ!」

    「サンキュー!」

     ATR社の一室で、専務の齋木郁夫ら天草エアラインの関係者五人のほか、ATR社の幹部・担当者、ノルディック・エイビエーション・キャピタルの担当者など、総勢十五人ほどがシャンペンのグラスを掲げた。

     機体の点検や契約書類の作成が完了し、購入代金の残額も無事払い込まれ、この日、天草エアラインはATR42-600を受領した。

     ドル円の為替レートはその後もじりじりと円安に振れたため、最終的な購入金額は円建てで二十五億百三十八万円になり、各市町村は補正予算を組んで対処した。

     ATR42の購入総額に対する各市町村と天草エアラインの負担額は、天草市が二十四億四千七百三十九万円(うち合併特例債が二十三億二千五百万円)、上天草市が二千四百八十万円(同二千三百五十万円)、苓北町が二千三百八万円(同なし)、天草エアラインが六百十一万円となった。

    「新みぞか号」は、ATR社のそばのトゥールーズ・ブラニャック空港の駐機場に駐機されていた。深みのある青色のイルカ模様の外装は、初代みぞか号(ダッシュ8)と同じである。ダッシュ8より二枚多い、六枚羽根のプロペラには深紅のカバーがかぶせられていた。プラット・アンド・ホイットニー・カナダ社製の右エンジンには子イルカの「かいくん」、左エンジンには「はるちゃん」、胴体の下にはモンタクロース(サンタクロース姿のくまモン)が描かれている。客室の内装はイタリアの工業デザイナー、ジョルジェット・ジウジアーロが手がけた。座席の色は目も覚めるようなワインレッドで、天草エアラインの社員たちとパラダイス山元が選定した。機体後部にはJA01AMという日本の機体登録番号が白抜きで書かれているが、その上からF-WWLFというフランスの機体登録番号がステッカーで貼られていた。

    =古屋智子・画

     八月十六日――

     朝九時四十四分、新みぞか号は、トゥールーズ・ブラニャック空港の三十二番滑走路から離陸した。これから日本までフェリーフライト(回送飛行)が行われる。ATR42は燃料タンクを満タンにしても一万ポンド弱で、一度に飛べるのは六、七時間が限度のため、所要日数は五泊六日である。

     三日前の機体受領時に取り交わした証明書類をもとに日本の国土交通省が発行した登録証明書、耐空証明書、運用限界等指定書などは、天草エアライン総務部主任の上田健児が「飛脚」(業界用語)として肌身離さずトゥールーズまで運び、機内に搭載されていた。

     機体後部のフランスの機体登録番号のステッカーは剥がされ、ATR社の二人のフランス人パイロットが操縦席についた。客室内に乗り込んだのは六人。天草エアライン専務の齋木、整備部の山本と江口、総務部の上田、日本エアーコミューターから出向中の萩原整備士、ATR社のフランス人整備士である。

     その日、機は、進行方向右手にピレネー山脈を見ながら南下して地中海に抜け、コルシカ島、イタリア南部、ギリシャ南部の上空を横切り、ほぼ一直線にキプロスに向かい、現地時刻(以下同じ)の午後四時十分に同国西部のパフォスに到着した。

     キプロスはギリシャ系住民の国だが、北部はトルコによって占領されている。パフォスはギリシャ系側の港町で、ギリシャ、ローマ時代の遺跡やモザイク画が残っており、街全体がユネスコの世界遺産に登録されている。

     ATR社が手配した宿泊先は、空港から離れたリゾート・ホテルだった。一行は、機体受領手続きの重圧から解放され、ほっとした気分で海岸を散策したりした。総務部の上田は、この日から毎日、会社のフェイスブックにフェリーフライトの様子をアップした。

     二日目は、午前十一時十五分にパフォスを離陸し、紛争地帯であるシリアやイラクを避け、エジプト中部の上空まで一気に南下した。そこから進路を東にとり、コバルトブルーに燦(きら)めく紅海を越え、砂漠や土漠が織りなす蛇紋模様を眼下に見ながら灼熱のアラビア半島を横断。午後三時三十三分、ペルシャ湾に浮かぶ小国バーレーンに到着した。

     空港で給油中に機外に出た一行は、四十二度の気温と猛烈な湿気に度肝を抜かれ、早々に涼しい機内に戻った。一時間あまりで給油が終わると、新みぞか号は再び雲一つない空へと飛び立ち、午後七時四十五分、オマーンの首都マスカットに到着した。

    (つづく)

     ※島のエアラインはサンデー毎日で2016年10月16日号から掲載された連載小説です。2018年夏に毎日新聞出版から単行本が刊行予定です。

    黒木亮

    1957年、北海道生まれ。早稲田大学法学部卒、カイロ・アメリカン大学大学院修士(中東研究科)。英国在住。 都市銀行、証券会社、総合商社勤務を経て作家になる。2000年、『トップ・レフト』でデビュー。主な作品に『巨大投資銀行』『排出権商人』『鉄のあけぼの』『赤い三日月』『法服の王国』『ザ・原発所長』。ほかに箱根駅伝出場の経験をつづった『冬の喝采』、エッセー集『リスクは金なり』『世界をこの目で』がある。最新刊は『国家とハイエナ』。

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