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スポーツ庁長官と語る 2020への決意:鈴木大地×吉田愛×吉岡美帆 風に乗って進め 再始動ペア

スポーツ庁の鈴木大地長官(左)とセーリングの魅力について語り合う吉田愛(中央)と吉岡美帆

スポーツ庁長官と語る 2020への決意

鈴木大地×吉田愛×吉岡美帆 風に乗って進め 再始動ペア

 スポーツ庁の鈴木大地長官が東京五輪に向けてアスリートと語り合う「長官と語る 2020への決意」の5回目は、2016年リオデジャネイロ五輪セーリング女子470級5位入賞の吉田愛(37)、吉岡美帆(27)=いずれもベネッセ=を迎えた。リオ五輪後、吉田が1年間の産休から復帰して昨秋から再始動したペアが東京五輪への思いやセーリングの魅力について、長官と語り合った。(対談は2月5日に実施)【構成・小林悠太、写真・藤井太郎】

    この子とならばやれる

     吉田 お久しぶりです。

     鈴木 リオ五輪の会場でお会いしましたね。1年半前になりますが、改めて、リオ五輪を振り返るといかがでしたか。

     吉田 3回目の出場で、ようやく自分の力を出せました。

     吉岡 私は初出場でした。とても緊張して、体がカチコチになり、普通はやらないミスをたくさんしてしまいました。

     鈴木 世界のトップ選手と大舞台で競争する中で気づいたことはありましたか。

     吉岡 私はミスを引きずってしまった。他国の選手を見ると、ミスをしても笑っていました。精神的な余裕の違いを感じました。

     鈴木 私も2回、五輪に出ましたが、1回目の五輪は緊張して、体調不良になり、5キロくらい痩せてしまいました。一度、経験すると、2回目からは力を出せるようになる。東京五輪では吉岡さんも2回目なので、心強いですね。470級について、全長4メートル70という程度の知識しか持っていない人が多いと思います。説明してもらえますか。

    スポーツ庁の鈴木大地長官(左)がソウル五輪で獲得した金メダルを手に取る吉田愛(中央)と吉岡美帆

     吉田 2人乗りで、五輪種目の中では小型の船です。適正体重は2人で計125キロほどと、小柄な日本人でも世界と対等に戦える種目です。過去、日本勢が五輪で2回メダルを取っています。

     鈴木 適正体重とは何ですか。

     吉田 船が沈みすぎない、ちょうどいい重さが適正体重です。

     鈴木 2人の役割分担を説明してもらえますか。

     吉田 私は「スキッパー」で、ヨットのかじを取ります。大きな帆を操り、船の進む方向を決めます。

     吉岡 私は「クルー」で、船の前の方に乗ります。小さな帆を操るほか、全身を使って船のバランスを保ちます。

     鈴木 瞬時の判断が必要ですね。

     吉田 そうです。風や波の状況に合わせて体を動かします。コンビネーションが大切なので、常に声を掛け合っています。長年、組んでいると、話さなくても、相手が求める動きが分かってきます。

    転向の成功例

    4回目の出場となる東京五輪でメダル獲得を誓う吉田愛

     鈴木 ペアを結成した経緯は。

     吉田 2012年のロンドン五輪後、次のペアを考えている時期に日本セーリング連盟主催の試乗会があり、いろいろな五輪を目指す選手が集まってきました。その中で、ひときわ大きいのが吉岡選手だった。当時、学生だったので、「一緒に練習してみよう」と声を掛けて、私の家にも泊まりに来てもらいました。話していくと、物静かですが、何が何でも五輪を目指したいという熱い気持ちを持っている。この子とならばやれると思いました。

     鈴木 先輩から誘われて、どう思いましたか。

     吉岡 本当に雲の上の存在で、会えるだけで感激していた。「一緒に乗ろう」と言ってもらい、とてもうれしかったことを覚えています。実は大学限りで、競技をやめようと思っていました。それが、4年生の時の全日本学生選手権で、実力を出せずにモヤモヤしている時に誘っていただき、もう1回上を目指そうと決めました。

     鈴木 お互いの力を評価すると何点くらいですか。

    吉田に憧れ、背中を追って強くなってきたという吉岡美帆

     吉田 吉岡選手は、リオ五輪までは60点くらいでした。リオ五輪直後から、私は1年間、産休したのですが、その間に吉岡選手はトレーニングを頑張ってくれて、今は80点にレベルアップしました。(身長177センチで)外国人の中に入っても通用する大きさがある。また、喜怒哀楽を出さない点も安心感があります。

     吉岡 私から見たら、吉田さんは100点です。本当にストイックで、妥協を許さない。背中を見て、抜かすぞという気持ちで頑張ってこられています。

     鈴木 吉田さんは五輪ごとにペアを代えてきました。リオ、東京と2大会続けて一緒のペアとなれば初めてですね。

     吉田 はい。吉岡選手の性格や身体能力はいいものを持っています。リオ五輪では出し切れなかったので、「絶対に東京では力を出そう」と同じペアでやることに決めました。

     鈴木 それぞれ競技を始めたきっかけは何ですか。

     吉岡 中学まではバレーボールをやっていました。違う競技をやりたいと思ったところ、高校の部活にセーリングがありました。セーリングならば、高校から始める人が多い。スタートラインが同じならば頑張れると思いました。

     鈴木 スポーツ庁でも、競技転向に力を入れています。まだ、自分が何の競技に適性があるか気づいていない人もいます。吉岡さんは転向の成功例ですね。吉田さんの始めたきっかけは。

     吉田 私は両親が趣味でクルーザーに乗っていて、毎週、家族で海に行っていました。小学1年生で習い事として始めました。

     鈴木 吉田選手は、リオ五輪後、産休で1年間休んだと言っていましたが、体力は落ちましたか。

     吉田 自分でもびっくりするほど落ちました。

     鈴木 スポーツ庁では、出産や子育て中の女性アスリート支援事業を行っています。

     吉田 活用しています。出産後、毎月、磁気共鳴画像化装置(MRI)検査をして、その時の体に合わせたトレーニングメニューを作ってもらいました。焦ってやりすぎて、腰に炎症が出たときもすぐに気づいてもらいました。安心して復帰に向けて取り組むことができました。

     鈴木 産休からの復帰戦となった昨年10月のワールドカップ愛知・蒲郡大会で、いきなりの2位でした。どう受け止めていますか。

     吉田 復帰戦にしては上出来でした。

     鈴木 不安はありませんでしたか。

     吉田 試合前はちょっとありました。でも、試合が始まってからは開き直れました。

     鈴木 吉岡さんは、どうやって吉田さんを待っていましたか。

     吉岡 復帰後も組む約束をしていて、準備をしていました。リオ五輪で、持久力も筋力も足りないと分かりました。1年間は、海で船に乗るより、国立スポーツ科学センターに通って、トレーニングをしていました。

    東京では金色のメダルを

    東京五輪での活躍がセーリングの普及につながると両選手にエールを送るスポーツ庁の鈴木大地長官

     鈴木 東京五輪の目標は何ですか。

     吉田 東京では、メダルを獲得したいです。

     鈴木 何色でしょうか。

     吉田 できれば金色のメダルを取りたいです。

     鈴木 日本のセーリング界がもっともっと発展していくためには、東京五輪で活躍することが一番いい広報になると思います。セーリングの魅力は何ですか。

     吉岡 まず、体験をして、楽しさを知ってほしいです。風だけで進むため、本当に自然と向き合う競技です。

     吉田 風を選んで船を走らせていますが、自然を相手にするので失敗ばかり。その中で、失敗の少ない人が上位に入る競技だと思っています。

     鈴木 東京五輪へ向け、何を改善していこうと思っていますか。

     吉田 産休の1年間で体力が落ちてしまった。そこを戻していくことが一番です。風が強くても弱くても、安定して上位で戦えることが私たちの強みです。体力さえ戻れば、メダルも夢ではないと思っています。

     鈴木 みなさんに見てもらおうと、長官室にソウル五輪の金メダルを置いています。手に取ってみてください。

     吉田 金メダルを手に取ったことは初めてです。重い。東京五輪では自分で獲得したいです。

     吉岡 私も重みを感じました。ぜひ、自分で手に入れたいです。

     鈴木 地元五輪で大勢の人たちがみなさんを応援する状況になります。どうか、楽しんでください。

    セーリングで使う用具を身につけて競技中のポーズを取るスポーツ庁の鈴木大地長官(中央)と吉田愛(右)、吉岡美帆

    よしだ・あい 東京都出身。2008年北京五輪と12年ロンドン五輪はともに14位。旧姓は近藤で、夫はロンドン五輪男子470級代表の吉田雄悟。17年6月に長男琉良(るい)君を出産した。

    よしおか・みほ 広島県出身。兵庫・芦屋高で競技を始める。13年から吉田とペアを組み、同年の世界選手権は10位。14年のワールドカップファイナルでは3位に入った。

    すずき・だいち 千葉県出身。1988年ソウル五輪の競泳男子100メートル背泳ぎで金メダルを獲得した。順天堂大卒業後に米コロラド大ボルダー校客員研究員などで留学を経験。2007年に順大で医学博士号を取得し、13年に順大教授、日本水泳連盟会長に就任した。15年10月、スポーツ庁の初代長官に就いた。