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不知火のほとりで

石牟礼道子の世界/66 詩篇

生死のあわいにあればなつかしく候=熊本県水俣市で、田鍋公也撮影

 <日曜カルチャー>

    みちこ、里芋の葉を

     涙雨。緒方正人さんに言われるまでもない。2月10日は朝から雨が降り続いた。石牟礼道子さんが10日午前3時14分に熊本市の介護施設で亡くなった。それからずっと降っている。現実感のないまま、仮通夜、本通夜、葬儀と過ごす。緒方さんから「涙雨」と聞いたのは本通夜の席だ。石牟礼さんの信頼が厚い「本願の会」同志の言として印象深く聞いた。

     「加勢に来ました」。私は石牟礼さんのところに行くと、そう言うのを常としていた。亡くなる前日の夜、枕元で「加勢に来ました」と言うと、石牟礼さんは薄目を開けて、うなずいた。自分の周囲にだれがいて、それぞれの人の言うことも逐一分かっているのだが、体が言うことをきかない。声が出ない。そういう事情です、分かってください、とでも言いたげな風情で目を閉じている。

     <あの世から/風の/吹いてくるけん/さくらの花の咲きました>

     RKB毎日放送が1970年に制作したテレビドキュメンタリー『苦海浄土』(木村栄文ディレクター)を3月16日、観(み)る機会があった。福岡市で開かれたRKBと西南学院大の公開講座「石牟礼道子の世界」の中で上映されたのだ。

     台本「詩篇(しへん) 苦海浄土」を原作者の石牟礼さんが書き、構成も石牟礼さんが任された。<あの世から~>の詩篇は台本の冒頭に掲げられているものだ。木村栄文さん(故人)の回顧録によると、<石牟礼さんは消え入るような風情で協力を承諾された。私は水俣も水俣病も勝手がわからず、頼りは石牟礼さん>だったという。前年の69年に『苦海浄土』が刊行されたばかりである。

     水俣で長く一人で書いてきた石牟礼さんにとっても、「語りの美しさを作品にしたい」と言う木村さんをリーダーとするテレビチームとの合作は心躍る出来事だったろう。RKB版で異彩を放つのは北林谷栄さん(故人)演じる瞽女(ごぜ)(琵琶弾き)の存在である。瞽女が水俣病患者を訪ねて回る。やりとりを克明にとらえることで水俣病というテーマを浮き彫りにする趣向なのだ。

     役者が演じる瞽女に、現実の水俣を歩いてもらうのは、石牟礼さんの発案である。石牟礼さんは「文学とテレビドキュメンタリーは別物」と思っていた。作品を生き生きとさせるためには、想定外の要素を導き入れる仕掛けが必要だ、と表現者たる木村さんも本能的に理解しただろう。そもそも石牟礼さんに台本など構成を委ねたのは、ハプニング(想定外)の到来を期待してのことだ。

     江津野杢太郎(えづのもくたろう)(原作)という少年の家で、瞽女の応対をしていた老婦人が突如、踊り出すシーンがRKB版にはある。玄関口にあらわれた瞽女に老婦人は驚く。瞽女は喜捨を受ける袋を持っていない。琵琶も弾けない。老婦人は瞽女に同情した。「それならおれが踊ってみせよう」と素足で庭に出る。自己流であるが、両手の動き、腰の据わり方など全身の動きが素朴な土俗歌と一体化して、実にサマになっている。

     実はこのとき、石牟礼さんは家の中で、老婦人と一緒にいたのだ。私が石牟礼さんから直接確かめた話である。石牟礼さんは「瞽女さんに差し出すコメをおばあちゃんが米ビツの底からこさぐ(削り取る)音をぜひ聞きたい」と思ったという。しかし、老婦人の踊りは石牟礼さんにも想定外だった。「とにかく文字の文化に縁のない庶民の自己表現の、完結した型を見た思いでした」と石牟礼さんはのちに私に語っている。

     「コメをこさぐ音を聞きたい」という石牟礼さんの言葉を私はかみしめている。幼い道子の家にも、放浪する芸能者や、懐に犬の子を入れた女性放浪者らがしばしば訪れた。道子の家が彼らを差別して追い払うことなどないのである。道子の母ハルノは放浪者が来ると、「みちこ、みちこ。里芋の葉の、うつくしかところば、二、三枚、とってけえ」と大声を出す。ハルノはお釜の底のおこげでおむすびをつくる。入念に洗った葉でくるみ、放浪者に差し上げるのである。

     放浪者を待ち受けているのは善意だけではなかった。村の子供は瞽女らを見ると「かんじん(勧進、物乞いという意味)、かんじん」とはやし立てて、石を投げることもあった。精神の均衡を崩して「しんけいどん」と言われた道子の祖母や、祖母と一緒にいた道子にも石は飛んでくる。道子はいつか自分を「世に居場所がない者」と思うようになった。

     RKB版には原作の登場人物のモデルが次々に出てくる。天草から渡ってきて水俣病になり、もう漁ができぬという痛切な思いを吐露する女性患者。排泄物(はいせつぶつ)の世話を兄弟に任せ、食事をするのもままならぬ胎児性患者。人形のように身動きできない少女。だれも立ち入ることのできぬ、絶対的な孤独というべき状況が映像化されている。同じくらい深い孤独をかこつ道子だけが水俣病患者を描くことができた。

     水俣を一巡した北林演じる瞽女は何事もなかったかのように水俣を去るのだった。

     去年の3月11日にはサクラの木の下で石牟礼さんの90歳を祝った。<あの世から/風の/吹いてくるけん/さくらの花の咲きました>。今年もサクラが咲いた。道子さんはいったいどこへ行ったのだろう。【米本浩二】=随時掲載

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