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私の出発点

柴崎友香さん 『きょうのできごと』 重なる「一瞬」世界輝く

作家、柴崎友香さん=東京都世田谷区で2018年3月16日午後3時52分、鶴谷真撮影

 かわちくんは不安そうな顔をして、わたしのほうを振り返った。

    「大丈夫。失敗したら坊主にしたらいいねん。坊主って、いちばん男前が引き立つ髪型やと思うで」

    「そうかなあ。……耳とか切らないでくださいね」

    「大丈夫」(『きょうのできごと』河出文庫より)

     小説のテーマや筋書きを取り出すのが難しい作家だ。穏やかな日常が淡々と描かれ、セックスや暴力、愛する人の死など“事件”が起きない。ややオドオドした主人公が眼前の出来事を観察している感じ。登場人物たちの連帯がそっと後押しされている気もするが、かといって人間関係そのものに焦点は結ばれない。

     いったい何が書かれているのだろうか。

     『きょうのできごと』(2000年1月刊)はこの作家の初の単行本だ。その前年に文芸誌に掲載されたデビュー短編「レッド、イエロー、オレンジ、オレンジ、ブルー」が冒頭部分を構成している。その舞台は、若い男女3人が乗る車の中だ。京都南インターから高速道路に入ったところで、時間は午前3時。助手席の「けいと」が運転席の「中沢」と「今日と明日の境目っていつなんやろう」と話し合う。車は大阪市内に入り、今度は尻取りを始めるが、眠ってしまう。「朝はまだなのに午前0時で『明日』になるのが不思議だった、そんな子どもの頃の感覚を書きたかったんです」。その際、作家が自らに課したのは、会話も地の文も自分がしゃべっている言葉だけで書くこと。「例えば『愛』なんて普段、使わないですよね」。比喩に頼らないとも決めた。「つい分かった気になってしまうから」。今も変わらないルールだ。

     3人は、中沢の友人で大学院に合格した「正道」のお祝いのために京都で集まって飲んだり騒いだりした帰り道だ。後部座席では中沢の恋人の「真紀」が眠っているが最後まで目を覚まさない。執筆当時、作家は大阪市内の産業機械メーカーに勤め、社内報や会社案内を作る仕事をしていた。展示会のため東京へ出張した際に編集者から「後ろでずっと寝てる女の子、気になるよね」と言われ、続きを創作して完成したのが本書だ。正道の家で、酔った真紀は正道の研究室仲間の男性の散髪をするが、めちゃくちゃな髪形になる。けいとは正道の後輩の「かわち」を気に入り、懸命に話しかける。やがて真紀とけいとはテレビの「懐かしの歌」の番組に合わせて大声で歌う。

     と書けば、たわいないコメディーに思えるが、違う。「私の小説は何も起きないと言われます。でも私は重要なことが起こっていると思って書いています。テレビドラマのような感動や悲劇がなくても人生は面白い。SNSにアップするために旅行に行くような今の風潮は本末転倒ではないでしょうか」

     土地や家など「場」を固定して、むしろそちらを主人公とし、折り重なった時間を見つめるのが作家の手法だ。わずかな縁を結んだ人と人、出会うことなくすれ違った人と人。寝起きし、ご飯を食べ、働き、おしゃべりする。写真を撮るように「一瞬」を切り取り、重ねていく。それは「世界は美しい」と思える輝きを放ち始める。世界文学と言っていい広がりがあるのだ。

     射程はあの戦争にも及ぶ。『わたしがいなかった街で』(12年)は、30代半ばの契約社員の女性が戦争や紛争のドキュメンタリー映像を見続けるうちに、ある希望に到達する。昨年刊行の『千の扉』は、39歳の新婚女性が東京の団地周辺の起伏に富んだ地形を上り下りするうちに、義理の祖父がいかに戦争にほんろうされ、それでも貫いてきた誇り高い生き方を知る。それは、万人受けしそうだが、その実、硬直的で保守的な家族観や女性観に対するアンチテーゼである。

     さて『きょうのできごと』は5人の視点が順に移っていき、それぞれの現在時間には少しずつ「ずれ」がある。冒頭の主役だったけいとは、末尾ではどこで何をしているのか分からない。「私たちは世界のごく一部に過ぎません。だから自分の存在とは無関係に世界は続いていく。そこに私は救われる気がするのです」。登場人物たちは小説を閉じた後も私たちの近くで生き続ける。時空を超えた友人を得られるのが柴崎文学である。【鶴谷真】=今回で終了します


     《作品紹介》

     友人の大学院合格と引っ越しを祝うために京都に集まる若い男女たちの交流を描く。それぞれ過去の出来事も回想するうちに、ささやかな生きる喜びが浮かび上がってくる。刊行時、柴崎さんは26歳。後に行定勲監督で映画化された。

     柴崎さんは1973年生まれ、大阪市大正区育ち。大阪府立大で人文地理学を専攻した。2000年末に退職し専業作家に。『その街の今は』で07年織田作之助賞大賞、『春の庭』で14年芥川賞を受賞した。

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