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湯川秀樹日記

寄稿「原子力と人類の転機」の全文

 ビキニ水爆実験を受け、1954年3月30日付本紙朝刊1面に掲載された「原子力と人類の転機」と題する湯川秀樹(当時・京都大基礎物理学研究所長)の寄稿は次の通り(原文のまま)。

    原子力と人類の転機

     未開時代の人類は野獣を家畜にすることに成功した。二十世紀の人類は自分の手でとんでもない野獣をつくり出した。科学者が原子力利用の可能性に気づいた当初から、それが有用な家畜にも、狂暴な野獣にもなりうることは予見されていた。原子爆弾はまず原子力の野獣性をあらわにした。私ども日本人の中からその犠牲者が多数出た。しかしそれは同時に人類の中での犠牲者であるという意味が世界的に十分に認められたとはいえない。原子兵器をつくる側にある人々はこの猛獣を制御しているのだという自信を持っていた。被害者にとっては、それは残忍狂暴な野獣以外の何ものでもなかったが、飼主にとっては定められた役目だけを忠実に履行する番犬のように見えたかもしれない。しかし原子力の狂暴性は日増しにつのっていった。水素爆弾の破壊力は関係者の予想をさえも上回った。またも日本人が被害者となった。実験者の側にさえも相当数の被害者を出したのである。それは実験者も予想していなかった被害であった。原子力の猛獣はもはや飼主の手でも完全に制御できない狂暴性を発揮しはじめたのである。しかもそれは戦争目的に直接使用されたのではなく、爆弾の威力をためすために、比較的安全だと思われた地域で行われた実験であったのである。しかも人類に対する被害をさらに大きく、広範囲にする仕掛は現在でもいろいろと考えうるのである。原子力と人類の関係は新しい、そしてより一層危険な段階に入ったといわざるをえないのである。今回の日本人の被害が、人類の一員としての被害であるという当然の認識が、前回の場合より切実感を伴って、より急速に世界に広まりつつあるのは、不幸中の幸いである。

     原子力の問題が少くとも今日相当期間にわたって、人類の解決すべき最大の問題であることはもはや疑いを容れる余地のないほど明確になってきた。それは未開人が野獣の恐怖からいかにして自己を守りえたかという問題とは、本質的に違っているのである。野獣は未開人にとって外的なものであった。原子力の脅威は二十世紀の人類がみずから獲得した科学知識に端を発するものである。野獣を撲滅することはできても、科学知識を撲滅することはできない。科学知識は人間の頭脳のなかに貯えられ、いくらでも多くの人に分け与えることができるからである。原子に関する知識を母胎として、原子力が成長し、爆弾となるにはもちろん多くの条件が必要である。たとえば今後日本で原子力の研究がどのような形で行われることになろうとも、短時日の間に独力で爆弾を造り出すなどということは考えられない。地球上の少数の強力な国家だけが今後もこの猛獣の飼主たる地位を保持するであろう。原子力問題のおもな責任者は明かにそれらの飼主である。しかしこの問題は一部の強力な国家の問題ではなく、人類全体の問題である。この猛獣をならして有用な家畜とするならば、人類全体が大きな恩恵を受けることもたしかなのである。原子力の平和的利用は、それほど強大でない国にでも実現可能なことなのである。すでに相当数の国々が、この方向に進みつつある。それはたしかに人類に明るい希望を抱かしめるものではあるが、一方において同類の猛獣の狂暴性は月に日につのりつつあるのである。原子爆弾の段階においてはそれは人類に役立つ家畜と同種のものであった。水素爆弾の段階になると、それはもはや家畜とはなりえない異種のものである。少くとも今日まで我々はそれをならして家畜にする方法を知らないのである。原子力の問題は人類全体の問題である。しかもそれは人類の頭脳に貯えられた科学知識に端を発するものである。この問題の根本的解決もまたおそらく人間の心の中からはじめねばならないのであろう。それは人類の進化の途上においてその運命を決定する新しい問題として現われてきたことの認識からはじめねばならない。原子力の脅威から人類が自己を守るという目的は他のどの目的より上位におかれるべきではなかろうか。人類の繁栄と幸福とは本来何人も異論することのできない共通目的であるはずである。

     しかしそれは現実においては多くの場合、各人の生活からかけ離れた理想に過ぎなかった。現実においては各人はもっと切実な動機によって動かされてきた。人類の繁栄と幸福が究極の目的であるにしても、そこに至る正しい道筋が何であるかについては、多くの異論がありえた。かつてはいかなる宗教を信ずるかが人間の集団的行動の決定的因子であったこともある。そのためには長年月にわたる戦争さえも辞さなかったのである。近代においては国家目的の達成が明確に最上位におかれた。さらに近くはそれがどのような社会形態を最上と信ずるかという問題と、より密接に結びつくようになった。

     しかし原子力の問題は人類の全体としての運命にもっと直接に関係する新しい問題として現われてきたのである。それを転機として人類の各員が運命の連帯に深く思いをいたし原子力の脅威から自己を守る万全の方策を案出し、それを実現することにいままでよりもはるかに大きな努力を払わなければならない段階に入ったのである。そしてそれは人類がその繁栄と幸福とにもっと直接につながる人類的共同体の実現への大きな一歩を踏み出すことでもあるのではなかろうか。

     私は科学者であるがゆえに、原子力対人類という問題をより真剣に考えるべき責任を感ずる。私は日本人であるがゆえに、この問題をより身近かに感ぜざるをえない。しかしそれは私が人類の一員としてこの問題を考えるということと決して矛盾してはいないと信ずるものである。

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