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山は博物館

それは戦時下だった/3 航空機着氷 ニセコで研究

今のニセコアンヌプリは、登山やスキーの行楽客で一年中にぎわう=去石信一撮影
観測所跡の記念碑。土台は戦闘機のプロペラを据えた台座=去石信一撮影

 <くらしナビ・環境>

     戦時中、航空機の脅威の一つは、墜落につながる機体への着氷だった。遭難した陸軍機内で1週間生きていた大尉が、無念な気持ちを書き残した壮絶な出来事もあった。防止策の研究のため、雪博士と言われた北海道帝国大の教授だった中谷宇吉郎(1900~1962年)は冬の北海道で、ニセコアンヌプリ(1308メートル)にこもった。

     ニセコアンヌプリはニセコ連峰の主峰。山頂には、中谷の研究を記念する「ニセコ観測所跡」の石碑が建っている。

     風雪が強く、飛行環境に似ている冬山は着氷研究にうってつけだ。中谷研究グループがニセコに入ったのは1941年2月から。標高1100メートル地点で、雪洞(雪の穴)などを拠点に針金に氷がつく様子などを観察した。43年の夏期には、山頂に木造2階建て約92平方メートルの観測所を建設。積雪後は地元の旧制倶知安(くっちゃん)中学の助けで戦闘機をそりで運び上げ、着氷過程や気象条件を調べた。国などから「戦時研究」に位置付けられ、当時の毎日新聞は「敵米英に烈々科学挑戦」と紹介した。

     太平洋戦争は航空機を主力とした。だが、夏でも高度4000メートル付近より上空の気温は氷点下。凍った雲の粒が機体に張り付く。機体が重くなったり、プロペラの回転数が落ちたりして推進力を失い、翼の形が変われば揚力もなくす。エンジンや電気の熱で解かしたり、凍りにくい塗膜を施すなどの対策はあったが未熟だった。中谷らの研究成果は戦後に発表された。

     陸軍機遭難は38年2月に起き、搭乗員7人全員が死亡。衝撃を受けた中谷は随筆で「航空学界が最大の課題として残す着氷の問題にぶつかったことは明瞭」とつづった。

     この飛行はソ連戦をにらんだ耐寒テストと言われる。埼玉県の熊谷陸軍飛行学校を飛び立った約40分後に消息を絶ち、発見は1カ月後。福島県檜枝岐(ひのえまた)村の雪深い奥只見地区で、隣の旧新潟県湯之谷村からムササビ猟に入った住民2人が、遭難機を偶然見つけた。笠井甚一郎大尉はレバーが凍結したことなど事故経過を紙に書き残していたほか、機体に「骨折のため歩行困難、空(むな)しく死を待つあり。最後にあたり陛下の万歳を三唱し航空の益々(ますます)の発展を祈る」とあり、その軍人魂がたたえられた。

     現場の片貝沢には今もエンジンなどの残骸がある。魚沼市の田中六郎さん(80)ら地元有志は2003年10月、奥只見湖畔から道無き沢を登り、確かめた。田中さんは「相当な山奥。1カ月で見つかったのは奇跡だ」と話した。持ち帰った計器盤など残骸約20点は、今年5月から奥只見湖畔の船着き場で展示している。田中さんは遭難から80年の今年の秋に現地追悼式を開く予定だが、高齢のため湖畔で宿屋「六方(ろっぽう)」を営む星光一さん(63)ら若手に活動を託したいと考えている。

     ニセコの観測所は戦後、寒冷地の農業研究所に衣替えする構想もあったが、泥棒に荒らされてできなくなった。機械類が盗まれ、持ち出せない大型の機械は床に落としてめちゃくちゃにされた。窓ガラスも大半が壊され、泥棒の鬱憤を表しているようだった。

     札幌市西区の中野義夫さん(83)は終戦4年後、ニセコ近くの蘭越(らんこし)中学の遠足で登山し「建物と、やぶにうち捨てられた戦闘機があった。皆で囲み、こんなのが飛んでいたのかと思った」と振り返る。

     機体は地元住民が金属資源として持ち去ったといわれるが、山頂近くの谷底に捨てられていた右翼は、郷土資料館「倶知安風土館」が06年に回収し、展示している。【柳楽未来、荒木涼子、去石信一】=次回は7月11日掲載


    遭難の大尉、子供たちに遺書

     陸軍機遭難で笠井甚一郎大尉は、最後まで生への執念を燃やしていた。地図の裏などに書いた事故報告によると、当初は3人が生きていた。大尉は初日、軽傷だった通信手に地形を確認させてから下山させようと、斜面を登らせたが進めなかった。3日目に1人が「凍死」。通信手を「敢然連絡に下山」させ、4日目に「彼も意の如(ごと)くならず斃(たお)れたるならん」と記した。捜索機が来たらしく「飛行機の爆音を聞く。降雪のため見えず。今に好天来るべし。生きるだけ生きん」と望みをつなぎ、5日目に脱出したが「動けないので引返す」。6日目に「死せんとす。最後部物置にて」としつつ、7日目は一言「脱出」。大尉と通信手の遺体は、後に機体の下方約300メートルの雪の中で別々に見つかった。

     一方、絶望して家族や上司に遺書を残した。「愛妻のみち子へ」は、「子供頼む。常々言ひあるを以(もって)言ふことなし」「立派な妻だった感謝する。子供は叱るより慈め。よい子供ばかりだから幸福になる。お前達を見守っている」などと記した。5人の「子供達へ」では「国家のために死にます。みんなの顔が見えるよ。御父さん頑張れの声も聞こえる。御母さんの云(い)ふことをよくききなさい。みんな良い子だから立派な人になるよ」と願った。【去石信一】


    山で戦時中行われた着氷研究

     富士山(静岡・山梨県、3776メートル)では、中央気象台山頂観測所が海軍の委託で実施。1942年7月1日の日誌は「戦争下をもって天気、予報は発表せざる事にする。見学は拒絶、観測、事務、研究も説明しない」と、全て秘密にしていたことを書き留めている。冬季に日本海から季節風が吹き付ける伊吹山(滋賀・岐阜県、1377メートル)のほか、岩手山(2038メートル)、蔵王連峰の山形県側でも行われた。

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