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「沖縄のこころ」を歌う砂川涼子さん(右)とピアノの沼尻竜典さん=びわ湖ホール提供

江川紹子

 ゴールデンウィーク中にびわ湖ホールで開かれた「近江の春・びわ湖クラシック音楽祭」に行ってきた。本サイト「アンコール」のコーナーでご報告したように、国内外の素晴らしい音楽家を集め、廉価で楽しめて一日中音楽漬けになれる、ほんとうに楽しい催しだった。

     その中で、印象的だった演目の一つ、ソプラノ歌手砂川涼子さんのリサイタル「沖縄のこころ」について、改めて触れておきたい。

     砂川さんは、言わずと知れた、日本を代表するプリマドンナの一人。「ラ・ボエーム」(プッチーニ)のミミ、「トゥーランドット」(同)のリュー、「カルメン」(ビゼー)のミカエラ、「ホフマン物語」(オフェンバック)のアントニアなど、控えめながら芯の強い女性の役が印象的だが、最近はトスカやヴィオレッタなど、さらにレパートリーを広げ、オペラには欠かせない存在だ。

     その砂川さんが沖縄の歌を歌い、しかも同ホール芸術監督の沼尻竜典さんがピアノを弾くというので、チケットは早々に売り切れた。

    三線の弾き語りをする砂川涼子さん=びわ湖ホール提供

     当日の砂川さんは、黒地に白やグレーの市松模様を散らした沖縄の着物に身を包んで登場。その清らかな声で、沖縄の民謡など9曲を歌った。三線(さんしん)の弾き語りも披露した。

     砂川さんが、高校卒業まで暮らした宮古島では、どこの家にも三線があり、毎日、あちこちから民謡が流れてきた、という。砂川さんの家でも、おじいさんがよく三線を弾いて歌っていた。沖縄音楽の音階やリズム、そして地元に伝わる民謡は、自然と体に染みこんでいるのだろう。

     沼尻さんは、砂川さんと同じ色調のかりゆし姿。宮古島に伝わる子守歌には寄せては返す波のような音楽をつけて、ゆったりとした時の流れを感じさせたり、お祝いの曲はにぎにぎしく奏でたりして、沖縄らしさを演出していた。

     会場から指笛が飛ぶなど、にぎやかに盛り上がる場面もあった演奏会の終盤、小さな異変が起きた。「さとうきび畑」を歌い終えた砂川さんが涙ぐみ、しばし後ろを向いて何度も目元を押さえていたのだ。その間、沼尻さんが巧みなトークでつないでいた。

     この歌は、第二次世界大戦末期の沖縄戦の犠牲者を思う鎮魂歌。

     「ざわわ…」とさとうきび畑を吹き抜ける風の音がくり返される中、「海の向こうからやってきた戦」で父が死に、戦後まもなく生まれた「私」が、父の姿を追い求め、父のいない悲しみを語る。

    〈お父さんって呼んでみたい

     お父さんどこにいるの〉 

     砂川さんが育った地域にもさとうきび畑があって、風が吹くと、本当に「ざわわ、ざわわ」と音を立てるのだそう。

     戦争末期の沖縄戦では、住民の4人に1人が命を奪われた。宮古列島にも連日のように米軍の爆撃が行われ、多くの犠牲者が出た。宮古島市から「平和の礎」に名前が刻まれている住民は3279人だが、正確な犠牲者数は実はよく分かっていない。なにしろ人口6万ほどの島々に約3万人の日本兵が駐留したため、食糧は極度に不足していた。住民は、栄養失調に加え、非衛生的な壕(ごう)生活を強いられる中でのマラリアの流行にも苦しめられ、まさに生き地獄の様相を呈した、という。

     そうした犠牲があった地で、さとうきび畑をわたる風を肌で感じながら育った砂川さん。歌に描かれた情景や思いを、歌いながらよりリアルに感じていたのではないか。

     コンサートの締めくくりは、やはり沖縄出身の与儀巧さんとのデュエットで「島唄」だった。

    〈島唄よ 風にのり 鳥と共に 海を渡れ

     島唄よ 風にのり 届けておくれ わたしの涙〉

     ミュージシャンの宮沢和史さんがこの曲を作ったきっかけは、1991年の沖縄訪問だった。この時、宮沢さんは初めて「ひめゆり平和祈念資料館」を訪れた。そこで元「ひめゆり学徒隊」のおばあさんから、体験談を聞いた。宮沢さんは、本土決戦を先送りする時間稼ぎのために沖縄が「捨て石」にされ、そこで何があったのか、この時初めて知った。人々は、食べ物も安全な場所もなく、それでも投降できず、米軍の攻撃に追い詰められ、そうして少なからぬ人たちが家族を手にかけて集団自決した。

     これを知った時の気持ちとそれが曲の創作に結びついた経緯について、宮沢さんが書いたエッセイを、ご本人の許可を得て以下に紹介する。

    〈極限状況の話を聞くうちにぼくは、そんな事実も知らずに生きてきた無知な自分に怒りさえ覚えた。

     資料館は自分があたかもガマ(自然洞窟)の中にいるような造りになっている。このような場所で集団自決した人々のことを思うと涙が止まらなかった。

     だが、その資料館から一歩外に出ると、ウージ(さとうきび畑)が静かに風に揺れている。この対比を曲にしておばあさんに聴いてもらいたいと思った。

     歌詞の中に、ガマの中で自決した2人を歌った部分がある。「ウージの森であなたと出会い ウージの下で 千代にさよなら」という下りだ。「島唄」はレとラがない沖縄音階で作ったが、この部分は本土で使われている音階に戻した。2人は本土の犠牲になったのだから〉(2005年8月22日付朝日新聞)

     私も一度だけ、この資料館を訪れたことがある。現場を再現した展示に、10代の少女たちがこんな過酷な状況に置かれていたのかと、ショックだった。犠牲になったひめゆり学徒隊の名前と写真が展示されたコーナーでは、息をのんだ。ところどころ、写真がなく、名前のみという人もいた。生きた証しを遺(のこ)すこともできなかった方々の無念さが、空白のスペースからにじみ出ているように思えた。

     歳月は容赦なく過ぎていく。体験を語り継ぐ活動をしていたひめゆり学徒隊の生存者も、多くが高齢のために身を引いた。今年4月には、資料館の7代目館長(90)が退任。沖縄戦を伝える役割は、戦後生まれの世代に引き継がれた。

     戦争の実相を、後世に伝える人びとの努力は続いている。それでも、もはや体験者が身近にいない若者たちに、実感をもって戦争を伝えていくのは容易ではないだろう。

     昨年9月には、沖縄戦末期に子どもを含め80人以上の住民が集団自決した読谷村のチビチリガマを、少年4人が荒らすという衝撃的な事件が起きた。「肝試しだった」「心霊スポットに行こうと思った」という動機にも驚いた。この洞窟で、何があったのか、彼らは「ほとんど知らなかった」とのことだった。

     戦跡が身近にあり、平和教育が熱心に行われているはずの沖縄でも、すべての子どもたちに、70年余前の惨劇を伝えることは難しいのだと、思い知らされた。

     まして、はるかに遠い本土においてをや。そんな中、ネット上には誤った情報も多数飛び交って、人々を惑わす。

     そのうえ昨今は、米軍基地の建設という、政治的な課題を巡る意見の対立も激しい。自分たちに都合のいい誤情報を確かめることもないまま拡散したり、それに基づいて激しい批判や心ない言葉を投げつけたりする人もいる。

     昨年12月、米軍ヘリの部品などが落下した保育園や小学校には、「自作自演だろう」「あとから(学校を)造ったくせに文句を言うな」といった中傷が相次いだ。「(普天間飛行場の場所は)もともとは田んぼの中にあり、周りは何もなかった。そこに商売になるということで(人びとが)住みだした」といった著名人の虚偽の言説を信じ、基地ができた後に近くに住むようになった住民が文句を言っている、と信じ込んでいる人は少なくないようだ。

     地元新聞の記事や宜野湾市のホームページによると、普天間飛行場がある場所には、戦前は14の集落があり8880人が住み、村役場や国民学校などもあった。沖縄に上陸した米軍が占領を開始すると同時に、住民を収容所に強制収容し、土地を接収して滑走路を建設した。住民の多くはふるさとに戻れず、米軍に割り当てられた普天間飛行場周辺に住まわざるをえなかった、という。

     無知ゆえか、それとも故意なのか、こうした歴史がいつの間にか書き換えられ、誤情報がネットの伝播(でんぱ)力で広がっていく。その一方で、歴史や平和について語ることに、政治的な”色”を感じて、ためらう空気も生まれつつある。

     そうした風潮は、何をもたらすだろうか……。私たちは、歴史への無知が引き起こしたガマ荒らしの事件から、もっと学ばなければいけないように思う。

     この事件については、こんな続報がある。家裁で保護観察の処分を受けた少年4人が、ガマの周辺で、遺族会(與那覇徳雄会長)や地元の彫刻家らと共に、犠牲者を悼む仏像を制作した、というのだ。

    〈3日間の作業を終えた少年たち。最後に、保護者にうながされて遺族らの前に出た年長の少年が口を開いた。「この場所の意味を知らずに遊び半分でやったことを深く反省している。してしまったことの重大さは消えないが、今後はチビチリガマのことをみんなに知らせることをしたい」

     深い反省と継続してチビチリガマにかかわる姿勢を示し、4人と保護者はガマに手を合わせた。同席者はその気持ちに拍手で応え、涙を流す人もいた。母方の祖父母ら5人を亡くした與那覇会長は「やった行為を反省してもらい、更生して立派な社会人になってほしい」と期待を込めた〉(1月26日、沖縄タイムズ電子版)

     記事には、制作を手伝った彫刻家の「(彼らが)次世代にチビチリガマの歴史をつなぐことを期待している」というコメントも紹介されていた。

     無知ゆえに罪を犯した少年たちを、非難するだけでなく、その贖罪(しょくざい)と更生に関わり、歴史の継承者として育てていこうとする「沖縄のこころ」に感じ入った。

     話を音楽に戻そう。

     実は、「さとうきび畑」も「島唄」も、当初、沖縄の人たちから聞こえてくるのは歓迎の声ばかりではなかった。とくに「さとうきび畑」が作られた1967年は、まだ沖縄はアメリカの統治下にあった。沖縄戦を生き抜いた人たちにとっては、死のふちをさまよう過酷な体験は、なお生々しかった。作詞作曲の寺島尚彦さん(故人)は栃木市生まれの東京育ち。沖縄戦の体験者からは、「知りもしないで、いいかげんなことを書くな」「戦争はそんな生やさしいものではない」「何を生ぬるいことを書いているのか」といった憤まんの声さえ上がったという。(「ざわわ ざわわの沖縄戦・サトウキビ畑の慟哭」田村洋三著、光人社NF文庫)

     しかし時の経過とともに、沖縄の人たちの、この曲への評価は変わっていった。「ざわわ」の本には、石原昌家・沖縄国際大教授のこんな言葉も紹介されている。

    「あの歌は戦死した父をしのぶ子供の目線で書かれた詩であることを忘れてはなりません。何も知らない子供にとって、いくさは海の向こうから突然、やってきたのです。それは戦争の真実を何も知らされぬまま、沖縄戦に巻き込まれた県民の思いでもあったでしょう。寺島さんが初めて沖縄を訪れた1964年、ベトナム戦争は始まりました。歌ができた67年には、沖縄は米軍による北ベトナム攻撃の前線基地として騒然としていました。ベトナムの民衆にとっても『海の向こうからいくさがやってきた』事態であり、寺島さんは沖縄戦とベトナム戦争を重ね合わせて曲を作られたと思います。平和を求める人々の心を映した、一つの時代が生んだ名曲と言えるでしょう」

     そして、世界に戦争の火種がある限り、「この歌は、歌い継いでいかねばならない新たな使命を帯びています」と石原さんは語っていた。

     2010年になると、地元でこの曲の歌碑を作ろうという運動が持ち上がった。読谷村出身者から土地の提供があり、12年4月、さとうきび畑に囲まれた地に、歌碑は完成した。傍らには、「いくさのない世界をめざす」「こどもたちの平和な心を育む」などと書かれた「ざわわ憲章」も掲示されている。

     「島唄」にも、当初は批判がなかったわけではない。「ヤマト(本土)の人間が、琉球音階や沖縄の魂である三線を使っている」といった声に、宮沢さんは「この歌を歌っていいのか」と悩んだこともあった、という。そんな時に背中を押してくれたのが「花」「ハイサイおじさん」で知られる喜納昌吉さんだった。

    「魂までコピーすればそれはマネじゃない。あなたの歌は沖縄の心を捉えている」

     そして、この曲は日本国内のみならず、世界にも広がった。アルゼンチンの歌手が歌って同国でヒットし、その波はチリやメキシコ、ブラジルなどの中南米諸国にも及んだ。02年の日韓共催のサッカー・ワールドカップでは、アルゼンチン代表チームの公式応援歌になり、アメリカ、ポーランド、ドイツ、ポルトガル、さらには中国でもカバーされた。

     この現象を、宮沢さんは「自らの意思とは違う死に方を選ばざるを得なかった多くの魂が、空へと舞い上がり、海を渡っていったのだろう」と語っている(09年6月19日朝日新聞電子版)。

     時の経過と共に、記憶の生々しさはどうしても薄らいでいく。しかし、音楽表現に昇華されることで、個々の体験は普遍性を帯び、時を超え、地域を越えて人の心に染み入り、想像力を刺激する。砂川さんの「沖縄のこころ」は、そうした音楽の力をも感じさせる演奏会だった。

     今年も、まもなく6月23日がやってくる。壮絶な沖縄戦が終結した「慰霊の日」だ。戦後まもなく生まれた「さとうきび畑」の主人公は、今年で73歳となる。

    江川紹子

    えがわ・しょうこ 神奈川新聞社会部記者を経てフリーライターに転身。その後、オウム真理教による一連の凶悪事件などの取材・報道を通じて社会派ジャーナリストとして注目を集める。新聞、週刊誌の連載やテレビの報道・情報番組のコメンテーターとして活躍。近年、クラシック音楽やオペラの取材、アーティストのインタビューなどにも取り組んでいる。Twitter:@amneris84 ‏

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