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翻訳家・池田香代子さん 会いたい人には会っておかなくちゃ

自宅の階段に立つドイツ文学者の池田香代子さん=東京都杉並区で2018年8月8日、手塚耕一郎撮影

 ビクトール・フランクル著「夜と霧」は、第二次大戦中の強制収容所で生き延びたユダヤ人の体験記だ。ナチスの悪辣(あくらつ)非道ぶりを克明に記録し、極限状況でも良心を失わなかった人間の尊厳を描いた。日本では、著者に実際に会って訳した霜山徳爾(とくじ)・上智大名誉教授(1919~2009年)の邦訳(みすず書房)が、戦後ずっと読み継がれてきた。

     「高校生の時に初めて読み、何度も何度も読み直してきました。それを私が訳すなんて、とんでもないと思っていました」

     フランクル自身が書き改めた第2版は日本語版が刊行されていなかった。ある時、みすず書房が「第2版を新訳して、この名著を21世紀に伝えたい」と仕事を依頼してきた。だが、翻訳の世界には「前訳者が存命の間は勝手に改訳してはならない」との不文律がある。編集者が霜山氏に改訳の許可を求め、ごく一部分の池田訳を渡したところ、すぐに返答があった。

     「今すぐ訳してください。私は末期がんなのです」

     この返事を編集者から知らされ、声を上げて泣いた。自分の人生を決めた本が読み継がれていく上で、自分の訳でなくても構わない、ということだからだ。霜山氏は新版に「旧版訳者のことば」を寄せてくれた。戦時中、軍医として旧海軍の鹿屋航空基地(鹿児島県)に赴き、特攻隊の出撃を見送ったことを踏まえ、そのような作戦を遂行した軍上層部への怒りがつづられていた。

     あまりの偶然に驚いた。叔父も特攻隊員で、鹿屋から飛び立ったまま帰ってこなかったからだ。「叔父も鹿屋で霜山先生のお世話になっていたかもしれません」。訪ねていって話を聞こうと思っていた矢先に亡くなった。以来、「会いたいと思った人には会っておかなくちゃ」と肝に銘じている。

     12月で70歳。「あと何冊翻訳できるか。読み残している面白い本がいっぱいあるし、古典にも取り組みたいのに、政治や社会のことで、つい時間を取られてしまうんです」と苦笑する。現職の国会議員が性的少数者(LGBTなど)を「生産性がない」と評したと聞き、真っ先に思い出したのは16年に相模原市の障害者施設で起きた殺傷事件だった。「生産性がない障害者は殺せという主張と、絶滅収容所を作る前に障害者や性的少数者を抹殺したナチス。そこに共通するうっすらとした時代の空気を感じて恐ろしくなります」

     黙って震えているわけにはいかない。ツイッターの使い方を息子に教わり、社会に向けて頻繁に情報を発信するようになった。読んでもらいたい書き込みを見つけると、リツイートして拡散に努める。デモにも行くし、時にはスピーチもする。全く苦にならない。「今の70歳って若いですよ。ちょっと上に吉永小百合さんがいて73歳。ちょっと下の中島みゆきさんが66歳。おちおちしていられません」と屈託なく笑う。

     3人の子育てを終え、かつては寸暇を惜しんで30分ずつ翻訳していたのが、その気になれば10時間連続でも机に向かえるようになった。その一方で、旅に出るようにもなった。講演や学習会で各地に出かけ、既に47都道府県の土を踏んだ。毎年春にはアウシュビッツ(ポーランド)の強制収容所へのツアーに同行する。参加者はシニアが中心だ。今年は「命のビザ」でユダヤ人を救った杉原千畝の勤務地、カウナス(リトアニア)も訪れた。「年を取ると、行きたいところへ行く時間ができて、ありがたい」

     現在は愛犬「ピッピ」と“2人暮らし”。子犬だった頃、知り合いの若者が、茨城県の漁港で工事中の穴に落ちて鳴いていたところを救出した。引き取ってから11年。成犬になったピッピは、たまに外の動物の気配に反応して大声でほえる。「こらっ」「駄目!」とたしなめる声は、「若い頃に格闘した原書をきちんとした日本語にして残したい」と語る時と同様、厳しくて優しいトーンだった。【奥村隆】


     ■人物略歴

    いけだ・かよこ

     1948年、東京都生まれ。翻訳家、ドイツ文学者、口承文芸研究者。「ソフィーの世界」や「世界がもし100人の村だったら」のベストセラーで知られる。2016年9月から「九条の会」世話人。

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