中国東北部を占領した日本は1932年に「満州国」をつくりました。国を挙げて、たくさんの日本人を満州国に送り込みました。
京都府亀岡市の黒田雅夫さん(81)は44年6月、両親と弟と共に満蒙開拓団として、京都から吉林省の廟嶺という所に移り住みました。やがて祖父も一緒に暮らしました。開拓団の人は軍に召集されないという話でしたが、終戦間際、多くの男の人が徴兵されました。黒田さんの家でも、父親が終戦2か月前の45年6月に召集されました。
同年8月15日より少し前、「日本が負けた」といううわさが広がりました。日本人は夜、風呂敷包みを抱え、村を抜け出しました。開拓団が移り住んだ土地は、もとは中国人の家や畑があったところでした。仕返しを恐れたのと、ソ連軍(当時)が攻めてきたからです。旧満州に取り残された人たちの命がけの日々が始まりました。
8歳だった黒田さんも昼はコーリャン(穀物の一種)の畑に身を隠し、夜はひたすら歩きました。目指すは、340キロメートル離れた開拓団の本部、遼寧省の撫順でした。300キロメートル歩き、残りは家畜を乗せるような屋根のない列車に乗って、9月中旬に着いた撫順では収容所で暮らしました。栄養失調でたくさんの人が命を落としました。黒田さんの祖父も12月に亡くなりました。
母親は5歳だった弟を、中国人夫婦に預けました。その母親も、飢えと寒さで体が弱り、息をひきとりました。収容所でひとりぼっちになった黒田さんの耳に、あるうわさが聞こえてきました。「親のいない子は売り飛ばされる」。黒田さんは収容所を飛び出しました。
路上生活のすえ、修道院の孤児施設へ。引き揚げ船で帰国したのは終戦翌年の7月でした。【野本みどり】=2面につづく