戦争で親をなくした子どもたち

/下(その1) 旧満州でひとりぼっちに 終戦時8歳の黒田さん

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引き揚げ船で帰国する際、孤児施設でもらったリュック。黒田さんの名前が書いてある 拡大
引き揚げ船で帰国する際、孤児施設でもらったリュック。黒田さんの名前が書いてある
旧満州国 拡大
旧満州国

 中国東北部ちゅうごくとうほくぶ占領せんりょうした日本にっぽんは1932ねんに「満州国まんしゅうこく」をつくりました。くにげて、たくさんの日本人にっぽんじん満州国まんしゅうこくおくみました。

 京都府亀岡市きょうとふかめおかし黒田雅夫くろだまさおさん(81)は44ねんがつ両親りょうしんおとうととも満蒙開拓団まんもうかいたくだんとして、京都きょうとから吉林省きつりんしょう廟嶺びょうれいというところうつみました。やがて祖父そふ一緒いっしょらしました。開拓団かいたくだんひとぐん召集しょうしゅうされないというはなしでしたが、終戦間際しゅうせんまぎわおおくのおとこひと徴兵ちょうへいされました。黒田くろださんのいえでも、父親ちちおや終戦しゅうせん2か月前げつまえの45ねんがつ召集しょうしゅうされました。

 同年どうねんがつ15にちよりすこまえ、「日本にっぽんけた」といううわさがひろがりました。日本人にっぽんじんよる風呂敷包ふろしきづつみをかかえ、むらしました。開拓団かいたくだんうつんだ土地とちは、もとは中国人ちゅうごくじんいえはたけがあったところでした。仕返しかえしをおそれたのと、ソ連軍れんぐん当時とうじ)がめてきたからです。旧満州きゅうまんしゅうのこされたひとたちのいのちがけの日々ひびはじまりました。

 8さいだった黒田くろださんもひるはコーリャン(穀物こくもつ一種いっしゅ)のはたけかくし、よるはひたすらあるきました。目指めざすは、340キロメートルはなれた開拓団かいたくだん本部ほんぶ遼寧りょうねいしょう撫順ぶじゅんでした。300キロメートルあるき、のこりは家畜かちくせるような屋根やねのない列車れっしゃって、9月中旬がつちゅうじゅんいた撫順ぶじゅんでは収容所しゅうようじょらしました。栄養失調えいようしっちょうでたくさんのひといのちとしました。黒田くろださんの祖父そふも12がつくなりました。

 母親ははおやは5さいだったおとうとを、中国人夫婦ちゅうごくじんふうふあずけました。その母親ははおやも、えとさむさでからだよわり、いきをひきとりました。収容所しゅうようじょでひとりぼっちになった黒田くろださんのみみに、あるうわさがこえてきました。「おやのいないばされる」。黒田くろださんは収容所しゅうようじょしました。

 路上生活ろじょうせいかつのすえ、修道院しゅうどういん孤児施設こじしせつへ。せん帰国きこくしたのは終戦翌年しゅうせんよくねんの7がつでした。【野本のもとみどり】=2めんにつづく

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