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加藤浩子の「街歩き、オペラ歩き」

緑の丘の総本山、オペラファン憧れの「聖地」訪問記〜バイロイト音楽祭

バイロイト祝祭劇場の外観

 バイロイト。

     その街の名前は、オペラファンのみならずクラシックファンにとって特別な響きを持つ。リヒャルト・ワーグナー(1813~1883年)が、自分のオペラだけを上演するために建てた特別な劇場がある街なのだ。人口7万3000人のさして特徴もない田舎町なのに、ワーグナーがこの街に白羽の矢を立てたおかげで世界的に有名になってしまった。何しろ駅のホームから、「緑の丘」と呼ばれる高台の上にそびえる赤い神殿のようなワーグナーの劇場「祝祭劇場Festspielhaus(フェストシュピールハウス)」が仰ぎ見えるのだから。「お膝元」という言葉が、これほどふさわしい街もないだろう。

    バロック様式の豪華な辺境伯歌劇場

     自分の作品を「総合芸術」と位置づけたワーグナーは、社交場と化していた当時のオペラハウス(桟敷席では観客が上演中もおしゃべりに興じ、ホワイエでは賭博が行われていた)で自分のオペラが上演されることに不満を抱き、自作だけを上演する「祝祭」の場を求めていたが、パトロンだったバイエルン国王ルートヴィヒ2世の勧めもあって、バイロイトにたどりついた。というのもこの街には、かつてこの地を支配していた辺境伯の妃(きさき)が建てたバロック時代の劇場があり、「祝祭」劇場の候補にあがったのである。結局、ワーグナーは辺境伯歌劇場は気に入らなかったもののバイロイトの街は気に入ったので、ルートヴィヒ2世の援助を得て、この地に新しい劇場を建てることになった。

    バイロイト祝祭劇場の客席(c)Bayreuther Festspiele/Jörg Schulze

     できあがった劇場は、とてもユニークなものだった。社交場としての性格を否定するために装飾はなし。桟敷席も取り払い、ほとんどの席は平土間。舞台がよく見えるよう、オーケストラピットは3分の2くらい蓋(ふた)がされた。さらに上演中の出入りができないよう、座席の列の間に通路を設けなかった。上演中は照明を落として舞台に集中させるようにしたのも、この祝祭劇場がはしりである。それまでは上演中であろうと、こうこうと照明がついていたのだ。

    客席からは見えないバイロイト祝祭劇場のオーケストラピット(c)Bayreuther Festspiele/Jörg Schulze

     ワーグナーの祝祭=バイロイト音楽祭は、1876年に「ニーベルングの指環」4部作で開幕し、以来21世紀の今まで、中断期をはさみつつも途絶えることなく受け継がれている。先月ご紹介したプッチーニ音楽祭や、ロッシーニの生地ペーザロで行われるロッシーニ音楽祭など作曲家ゆかりの地でその作曲家の作品だけ上演する音楽祭は他にもあるが、作曲家自身が造った劇場が会場という音楽祭は他にない。劇場自体、上に書いたような独特の構造や、主にピットを覆ったせいで「玄妙」と表現したくなる素晴らしい音響効果が体験できるので、一度は行ってみたいという声が一番多い音楽祭でもある。

     この音楽祭が、今日まで途絶えることなくワーグナーの一族によって運営されていることも特筆すべきだろう。もちろんそんな音楽祭も他にない。ワーグナーの没後、彼の夫人のコジマ・ワーグナーが音楽祭の総裁に就任し、コジマ以後は息子、その嫁、孫、そしてひ孫へと、総裁の座が受け継がれているのだ。ある報道関係者の話によると、ワーグナー一家というのは、ドイツでは貴族並みの扱いを受けているらしい。

    ヴァーンフリート館

     とはいえここまでの道のりは、決して平たんではなかった。第二次世界大戦中はワーグナー・オペラを好んだヒットラーによって、祝祭劇場はナチスの劇場と化し、当時の総裁ヴィニフレート・ワーグナーは、戦後ヒットラーとの関係を断罪されて引退した。それ以外にもワーグナーの孫で音楽祭の総裁も務めたヴォルフガングの息子の造反や、ヴォルフガングの前妻と後妻との葛藤など、さまざまな事件に見舞われた。そんな人間臭さもまた、「バイロイト」という名に振りかけられた特別なスパイスになっているようだ。

    完成スコア

     バイロイトが気に入ったワーグナーは、街中に終(つい)の住処(すみか)「ヴァーンフリートWahnfried(=迷いの安らぐところ、というような意味のワーグナーの造語)」も建てた。しばらく前までワーグナー一家が住んでいたが、今は街に寄贈され、博物館として公開されている。間取りも当時のまま、家具調度も一部は残され、王侯貴族のような生活がしのばれる。地下には貴重品の展示室があり、今年は開幕公演で上演された「ローエングリン」の創作過程が展示されていた。台本草稿(ワーグナーは台本も自分で書いた)、作曲スケッチ、オーケストレーション、そしてスコアと、作品完成までの道のりが、すべて彼の自筆で見られたのである。こんな体験も、バイロイトならではだ。

    バイロイトの街中にあるワーグナーの像

     お恥ずかしい話だが、筆者はこの夏、バイロイトをほぼ20年ぶりに訪れた。個人的にワグネリアン(=ワーグナーの熱烈なファンのこと)でないこともあるし、チケットが入手しにくいので尻込みしていたこともある。以前は世界中のワーグナー協会などに優先販売をしていたため、一般の観客にはなかなかチケットが回ってこなかったのだ。だがそのような状況は最近改善され、ここ数年はネットのチケット販売サイトでも手に入るようになったので、一念発起したのである。

     20年ぶりのバイロイトは、なかなかに強烈な体験だった。ワグネリアンの方々には大変恐縮ながら、筆者にとってワグネリアンへの道はまだまだ遠いと痛感したのである。

     まず、暑さにやられた。というのも1876年の開場時の姿をとどめている祝祭劇場には、冷房がないのだ。そもそも寒冷地帯のドイツでは、つい最近まで冷房など必要なかった。だが温暖化の影響で暑い夏が増え、とりわけ今年の暑さは日本同様驚異的で、35度を上回る日もあったほど。筆者が訪れた日はさほどでもなかったが、それでも上演中は汗まみれになった。あと、座席が狭い。下手に動くと前や左右の観客と体が触れ合ってしまうので、これも緊張を強いられる。

    休憩中の風景

     幸いだったのは、休憩時間が1時間と長いこと。劇場の周囲が広々とした公園になっているので、休憩時間に周囲を歩き回り、リフレッシュできた。この休憩時間を利用して食事をとる人も多い。バイロイト音楽祭は正装率が高いことでも有名なので、世界中から訪れる観客のドレスウオッチも楽しい。

    「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のカーテンコール

     客席の雰囲気もきわめて独特だ。公演のレベルはもちろん高いが、「感動してやろう」という意気込みが違う。カーテンコールで歌手や指揮者が登場すると、一定以上のレベルならまずブラボーと足踏みの嵐である。その一体感たるやすさまじい。バイロイトはワグネリアンの「聖地」と言われるが、それを一番感じたのはこの客席の熱気だった。

    「ニュルンベルクのマイスタージンガー」のワンシーン(c)Bayreuther Festspiele/Enrico Nawrath

     今回見た演目は「ニュルンベルクのマイスタージンガー」。16世紀のニュルンベルクで活躍した、実在の「職匠歌人=マイスタージンガー(歌を詠む職人)」たちの姿や、彼らが挑む「歌合戦」を通じて、芸術に対するワーグナーの哲学が披露される作品だ。音楽は精巧で、スケールが豊かで流麗。主人公のハンス・ザックスが、若者ヴァルターに歌の詠み方を手ほどきするシーンは感動的だ。

     売れっ子演出家のバリー・コスキーによるプロダクション(2017年制作)は、設定を16世紀のニュルンベルクから、ワーグナー当時のドイツに移し、幕が進むごとに時代が下って、最終幕の第3幕の設定は第二次世界大戦後のニュルンベルク裁判の法廷。ザックスとヴァルターは、それぞれ壮年のワーグナーと青年ワーグナーに置き換えられていた。いわゆる「読み替え」だが、本来の喜劇の空気は十分に生かされ、ユーモアもあり、とくに生気あふれる人物描写が魅力的だった。

    バイロイト祝祭劇場のステージ正面(c)Bayreuther Festspiele/Jörg Schulze

     ふわりとベールがかかったような独特の音響、奥行きがあり、客席のどこからもよく見える巨大な舞台、狭いとはいえ前列との段差がきちんとついていて、舞台が見やすい構造になっている座席と、ワーグナーの哲学が徹底されている劇場が今でも機能していることのすごさも、十分に思い知った気がする。

     それは十分承知しつつ、やはり筆者は今回も、バイロイトという聖地詣でを繰り返す正統派ワグネリアンにはなりそびれたようである。かつてはワーグナーの大作、とくに「ニーベルングの指環」4部作の全曲上演はバイロイトくらいでしかなかったが、今では世界中でワーグナー作品が、そして日本でもかなり高いレベルで上演されていることを考えると、自分にとってはその方が気楽にワーグナーに親しめると感じたことが最大の理由だ。俗世間と切り離された緑の丘の上でオペラに集中できる一日が、ファンにとって何ものにも代えがたいぜいたくだと実感したことは、大きな収穫だったのだけれど。

    筆者プロフィル

     加藤 浩子(かとう・ひろこ) 音楽物書き。慶応義塾大学、同大学院修了(音楽学専攻)。大学院在学中、オーストリア政府給費留学生としてインスブルック大学留学。バッハとイタリア・オペラをテーマに、執筆、講演、オペラ&音楽ツアーの企画同行など多彩に活動。著書に「今夜はオペラ!」「ようこそオペラ!」「オペラ 愛の名曲20選+4」「名曲を生みだした女性たち クラシック 愛の名曲20選」「モーツァルト 愛の名曲20選」(春秋社)、「バッハへの旅」「黄金の翼=ジュゼッペ・ヴェルディ」(東京書籍)、「人生の午後に生きがいを奏でる家」「さわりで覚えるオペラの名曲20選」「さわりで覚えるバッハの名曲25選」(中経出版)、「ヴェルディ」「オペラでわかるヨーロッパ史」「音楽で楽しむ名画」(平凡社新書)。最新刊は「バッハ」(平凡社新書)。

    公式HP http://www.casa-hiroko.com/

    ブログ「加藤浩子のLa bella vita(美しき人生)」

    http://plaza.rakuten.co.jp/casahiroko/

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