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今週の本棚

村上陽一郎・評 『胃弱・癇癪・夏目漱石 持病で読み解く文士の生涯』=山崎光夫・著

 (講談社選書メチエ・2052円)

    人間漱石の生の姿明るみに

     幾つかの機会に書いたように、私は漱石で育った。小学生のころから読み始めた、あの独特の表装の漱石全集は、二セットになって、なお、旅先などで読むための文庫本も、折々買い求めるほど。だから、『明暗』の津田が痔疾(じしつ)で苦しみ、『猫』の主人の「神経胃弱性」や『行人』の三沢の胃潰瘍での入院などの場面を読めば、著者(漱石)本人もそうした患いを抱えていたのだろうと想像はできた。「修善寺の大患」も知識としてはあったし、不幸な滞英生活や、「神経衰弱」の宿痾(しゅくあ)、あるいは子規との熱い交友ぶり、博士号返上事件、大学教授としての負の経験、池辺三山(さんざん)と朝日入社のいきさつ、あるいは、鏡子夫人、弟子たちや主治医など、漱石を取り巻く人々についても、知る機会は増えた。

     けれども、不思議に私は、漱石に人間的な関心をほとんど持ったことがなかった。そのことに本書を読んで徹底的に気づかされた。それは単に自分の無知をあらためて確認する仕儀でもあったが、それほど、本書は克明に、作家の目で見た、漱石を巡る様々な人物の人間像を描き出し、さらに、その描写を通じて、弟子たちが通常は遠慮がちにしか語らない部分も含めて、人間漱石の生の姿を、会釈なく明るみにさらすことに成功している。

     記述は当然、大きな意味では、年代記風な枠組みに沿って進められるが、その枠組みは、必ずしも一貫して機能しているわけではなく、話題によって、またそれぞれの人物像へ迫るための作家的工夫からか、記述は時に前後し、時に重複するのが、印象を深めると同時に、ありきたりな「伝記的」内容を期待して読み始めると、やや戸惑う場面もある。もう一つ著者年来の課題意識から、またタイトルからも想像されるように、漱石の抱えていた病気と、それを扱う医師たちが、この物語の主役となる。

     「ミザントロープ」、そもそも私はこの魅力的な言葉をどこで覚えたのだろう。少なくともモリエールでなかったことは、大学生の頃までモリエールのどの作品も読んだことがなかったことからも確かだ。そうだとすると、やはり漱石かしら。「ミソス」+「アントロポス」で「人間を嫌う」。これを一種の「病い」とみたて、著者は本書の通奏低音に選ぶ。

     漱石の無二の親友であった子規も、漱石も、多病であったことは知られているが、それと絡んで、内科の佐々木東洋、眼科の井上達也両国手の紹介がある。因(ちな)みに佐々木の杏雲堂病院、井上の済安堂眼科病院は、ともにお茶の水にあって、現在も盛業中である。漱石が井上眼科に通い詰めた理由は、トラホームらしき眼疾であったが、待合室で会う美しい婦人の引力もあったとは、鏡子夫人も承知のエピソードであった。しかし、多病と言えば子規は、自他ともに許す病持ち、自ら、頭から(両足を除き)全身これ病のみと自嘲するほど。その子規が幸田露伴に心酔して『月の都』なる小説原稿を露伴のもとに持ち込む話。露伴の無反応に子規は「詩」へと転向する、と宣言するに到(いた)るが、この転向には漱石も一役かっている、と著者は推理している。それにしても、漱石と子規の手紙のやりとりを克明に再現してみせる著者の手腕には敬服。と同時にこの二人の巨人の友誼(ゆうぎ)の篤(あつ)さには、あらためて心打たれる。本質的に「人間嫌い」だからこそ、真に心許した友への思いが伝わってくる。

     漱石は、二人の兄を二、三十代で、結核で亡くしている。自分も、という懼(おそ)れは、常に脳裏から離れない。この辺りは、菊池寛の『順番』という小品を思い出させる。実際二十代の終わり頃軽い喀血(かっけつ)にも出会う。その時は北里柴三郎に診て貰(もら)っている。

     子規の迷いはまた漱石の迷いでもあった。「何になるか」。子規は卜占(ぼくせん)の術に長(た)け、漱石の未来を見事に言い当てたようだが、当初建築に惹(ひ)かれていたという。しかし、後輩の米山保三郎の助言を入れて、文学に進む決心をする。あまり知られていない米山についても、著者の調査は行き届く。彼も数少ない漱石の若き「真友」であったが、結核で夭折(ようせつ)する。それやこれや、ミザントロープ癖も手伝って参禅も。その惨めな結果は『門』に反映されているが。

     英国留学後、熊本へは帰らず、英文学で帝国大学講師と一高講師を兼任するも、悶々(もんもん)とする日々、結局朝日新聞の社員として再出発。この辺りは比較的知られているが、一見拝金主義的な行動にも著者の筆は届く。

     滞英時代すでに顕著であった精神的不安定は、その後家庭で暴発する。著者は、鏡子夫人の文章も借りながら、この間の事情を活写する。夫人への暴言、息子(伸六)をステッキで滅多(めった)打ちにする、弟子たちにも突然悪態をつくなど。家庭医であった尼子四郎医師の診断では、「精神病の一種」。尼子は、当時の精神科の権威呉秀三の診察を進言。呉の判断は尼子の疑診の確認であったらしい。いわゆる森田療法との関連も言及される。

     そして命取りになった胃潰瘍。この事情はよく知られているので、筆止めにするが、天才とは厄介なものとの思いも残る。

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