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東京へ ともに歩む

毎日新聞

【アジアパラ大会・車いすバスケットボール男子】【日本-イラン】第4クオーター、パスコースを探す鳥海連志=インドネシア・ジャカルタで2018年10月13日、久保玲撮影

パラアスリート交差点

車いすバスケ・鳥海連志「やってみる」 原点は何事も挑戦

 僕は生まれつき手や脚に障害があり、行動が限られていました。でも、好奇心は旺盛で何事にも挑戦しようとしました。

     保育園の時、2メートル近い壁から飛び降りると言って、周囲の大人たちを困らせたこともあります。そんな時、父や母は「まず、やってみなさい。だめなら他の方法を考えればいい」と言い続けてくれました。いろいろなことを止めずにやらせてくれたことが、今の自分につながっていると思います。何事も「やってみる」は僕の原点です。そんな話をこれから伝えていきます。

     僕は長崎市で生まれ、中学時代は長崎県西海市で過ごしました。海と山のあるのどかな街。夏に帰ると、海がとてもきれいで磯の香りが鼻をつく。街灯は少なく、広がる闇に「帰ってきたなあ」という気持ちになります。地域のつながりが深く、みんなで子供を育てている感じがします。ちなみに、帰省すると必ず食べるのが母の手作りギョーザ。今も食べたいです。

     通っていた西海市の大島中は部活動に全員が参加することを勧めていました。体を動かすことが好きなので運動系、特にバスケットボール部に入りたかったのですが、男子バスケ部はなかったので友達が誘ってくれたテニス部に決めました。

     中学1年の時、女子バスケ部のコーチから「車いすバスケって知ってる?」と練習の見学に誘われました。でも、友達とテニスをすることが楽しかったので断りました。それでも2回、3回と熱心に勧められたので、「見に行くだけなら」と後に所属する佐世保クラブの練習に行きました。競技用の車いすに乗せてもらいましたが、操作がとても難しく、シュートが全然決まらない。しかし、クラブの選手たちは3点シュートをずばずば決めていました。悔しかった。だから自分自身に誓いました。「チームで一番うまくなってやる。日本代表を目指そう」。僕の車いすバスケ人生が始まりました。

     2013年に東京パラリンピックの開催が決まった時は中学3年。言い方が悪いかもしれませんが、はっきり言って「人ごと」でした。16年のリオデジャネイロ大会しかり、東京大会しかり、自分がそのコートにいるイメージは、まだできていませんでした。自分が出ていないバスケの試合には、あまり関心もなかったです。

     日本代表候補合宿に最初に呼ばれたのは高校1年の時。7月に行われた全国ジュニア選抜大会で、所属する九州選抜が優勝し、MVP(最優秀選手)に選ばれました。直後の8月、九州開催の日本代表候補合宿に参加させていただきましたが、周囲の選手との実力差を痛感しました。練習を積み重ね、「今度こそ」との思いで臨んだ12月の強化指定選考合宿。そこではいいプレーを見せることができ、「楽しくバスケができた」と感じました。結果も伴い、目標にしていた強化指定選手に選ばれました。

     17歳で出場したリオ大会は、納得できる出場時間を得られませんでした。目標は6位入賞でしたが、結果は9位。ただただ地元でバスケをすることが楽しいという状態から急に勝つための集団に入り、「必死にやったつもりがこの結果か」と、自分と世界との壁の前に力が抜けました。「もういいや」とバスケをやめようとも思いました。

    鳥海連志「やってみる」

     しかし、自分はまだ何も成し遂げていませんでした。高校3年という進路を決める時期に周囲と話し合った結果、競技に打ち込める首都圏に拠点を移すことを決め、僕の腹は固まりました。

     日本がメダル獲得を目指している20年東京大会では、チームの軸として活躍を期待されています。いくつもの困難が待ち構えているでしょうが、そのたびに僕はこの言葉を思い出したい。「やってみる」

    ちょうかい・れんし

     長崎市出身。手や脚に先天性の障害があり、3歳で両膝下を切断。中学1年で車いすバスケットボールを始め、高校1年で日本代表入りした。2016年リオデジャネイロ・パラリンピック代表。17年のU23(23歳以下)世界選手権でベスト5(優秀選手)に選ばれた。20歳。