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豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼした1590年の「小田原合戦」を巡っては、忍城(現行田市)の水攻めに触れないわけにはいかない。7月5日に北条五代氏直が降伏、11日には四代氏政らが切腹したにもかかわらず、その後も忍城での攻防は続いた。なぜなのか。
忍城主だった成田氏の子孫が後世に記した「成田系図」などによると、成田氏の祖先は藤原氏とされ、武蔵国崎西郡(現加須市など)の郡司として関東に入り、成田郷(現熊谷市上之付近とみられる)に定住して成田氏を名乗ったという。平安期から源平合戦の時代を経て、独立性の高い領主として地位を築き、「八幡太郎」の源義家から「馬上礼」(乗馬したままのあいさつ)を許されたほど格式ある家柄だ。
室町中期から戦国時代にかけ、関東では鎌倉公方(のち古河公方)足利氏と関東管領上杉氏の抗争が百数十年に及び、忍城はこのさなか、成田氏により15世紀半ばから後半に築城されたとみられる。沼地など自然の地形を生かした要害で、水に浮かんで見える「浮き城」と呼ばれ、攻めにくく、守りやすいのが特徴だ。
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