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あの日を残す

長崎市の市民団体「長崎の証言の会」が刊行する被爆証言誌が創刊から今年で50年となる。被爆地から「ノーモア・ヒバクシャ」を発信し続ける人たちの歩みを振り返る。

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長崎の証言50年/上 人の道、2000の告発 「被爆者の十字架吐露」

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安日涼子さん(左)から自宅があった場所などを聞き取る長崎の証言の会の森口貢事務局長=長崎市筑後町で2019年7月、今野悠貴撮影
安日涼子さん(左)から自宅があった場所などを聞き取る長崎の証言の会の森口貢事務局長=長崎市筑後町で2019年7月、今野悠貴撮影

 「私だけが学徒動員で助かったんです。皆死んでしまって」。7月5日、長崎市筑後町の介護施設で、被爆者の安日(やすひ)涼子さん(88)が、被爆証言誌を刊行する市民団体「長崎の証言の会」事務局長の森口貢(みつぎ)さん(82)を前に、74年前の記憶を語っていた。

 安日さんは、長崎県立長崎高等女学校(当時)3年の時、爆心地から約1・3キロの三菱重工長崎兵器製作所大橋工場で被爆。雷のような閃光(せんこう)に包まれた瞬間、がれきの下敷きになった。安日さんは一命をとりとめたが、爆心地そばの自宅兼印刷工場は全壊した。

 出征中の父を除く母や姉妹ら家族6人と従業員5人が即死、逃げ延びた従業員2人も1週間後に息を引き取った。「突然大勢が亡くなって、悲しいとさえ考えられなかった」。残った母の金歯で作ったという指輪をなでながら「語るのは生き残った者の務めです」。

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