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「私だけが学徒動員で助かったんです。皆死んでしまって」。7月5日、長崎市筑後町の介護施設で、被爆者の安日(やすひ)涼子さん(88)が、被爆証言誌を刊行する市民団体「長崎の証言の会」事務局長の森口貢(みつぎ)さん(82)を前に、74年前の記憶を語っていた。
安日さんは、長崎県立長崎高等女学校(当時)3年の時、爆心地から約1・3キロの三菱重工長崎兵器製作所大橋工場で被爆。雷のような閃光(せんこう)に包まれた瞬間、がれきの下敷きになった。安日さんは一命をとりとめたが、爆心地そばの自宅兼印刷工場は全壊した。
出征中の父を除く母や姉妹ら家族6人と従業員5人が即死、逃げ延びた従業員2人も1週間後に息を引き取った。「突然大勢が亡くなって、悲しいとさえ考えられなかった」。残った母の金歯で作ったという指輪をなでながら「語るのは生き残った者の務めです」。
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