社史に人あり

ロート製薬/16 「家業」から「近代企業」に脱皮=広岩近広

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 大阪の山田安民薬房を率いた山田輝郎は、敗戦(1945年)から4年後の夏、新たな経営戦略を練った。経済活動を縛ってきた政府の統制や規制が年ごとに廃止された半面、企業間の販売や製品開発の競争は激しくなっていた。

 山田安民薬房も50年の伝統と信用、それに従来のブランド商品に、いつまでも頼っていては、取り残されるのではないか……。

 輝郎はそれこそ寝ても覚めても、戦後社会の激動を乗り越えるために、まず何をなすべきかと知恵を絞った。新時代にふさわしい新たな商品をつくり、新時代の消費者の心をつかむには、「家業」から「近代企業」への脱皮は避けられない――。この結論に迷いはなく、輝郎は株式会社の設立を決意する。株式引受人を選び、資本金を準備し、定款をつくって、設立の準備を進めた。

 そこで、会社の商号である。製薬業界では創業者の名字から社名をとるのが一般的だったが、輝郎はあえて「山田製薬」を避けた。社名は「ロート製薬」にしよう、と即断する。「ロート目薬」は山田安民薬房の代名詞になっているうえ、事業展開の柱だから、この商品名に由来する名称を選んだ。

 山田安民薬房の全事業を継承する「ロート製薬株式会社」の設立総会が1949(昭和24)年9月8日、大阪市東成区の本店で開かれた。輝郎は社長に就き、番頭格の金子栄五郎が専務に選ばれた。社史は理念を、こう書き留めている。

 <輝郎がまとめた創立趣旨は、「現在の社会情勢を通観、わが国国民生活上看過し得ざる定款所定事項(医薬品の製造・販売)を目的とし国恩の万分の一にも報ぜんとする」と記されている。「国恩の万分の一にも報ぜん」という言葉には、輝郎をはじめ全社員の意欲、情熱、使命感がこめられていた>

 新会社の基礎固めを終えると、いよいよ輝郎は新製品の開発に乗り出す。戦後の製薬業界は、ペニシリンを筆頭とする抗生物質が席巻していた。すでに抗生物質目薬を売り出しているライバル社もあったが、この市場へ参入しないわけにはいかない。だが、二番煎じはご法度である。輝郎は主な役員、社員に「ロート独自の、理想的な抗生物質目薬をつくろう」と檄(げき)を飛ばした。

 専務の金子栄五郎が、国立予防衛生研究所(現在の国立感染症研究所)の抗生物質部長で微生物化学の第一人者、梅沢浜夫と面識があった。輝郎はさっそく梅沢を訪ね、新しい抗生物質目薬の処方を依頼する。輝郎の実直な説明に理解を示した梅沢は、ペニシリンが効きにくい病原菌でも、ストレプトマイシンなら効力があるので、二つを複合処方すれば新薬ができると応じてくれた。

 輝郎が待ち望んだ抗生物質を複合した新目薬は1952年12月、「ロートペニマイ目薬」の名称で発売された。これまで眼科医にかからなければ治らないと言われた目の病が回復をみたと評判になり、効験あらたかな目薬の開発者として、ロートブランドの信用度はさらに高まった。

 初めての試みとして、「御愛用者の声」と名付けたアンケートはがきを、「ペニマイ目薬」を入れる箱に同封した。輝郎は毎日届く「御愛用者の声」に目を通し、せっせとメモを取った。この種の調査カードは、企業活動の根幹にかかわる有益な「宝の山」であり、近代マーケティングの始まりといえた。(敬称略。構成と引用はロート製薬の社史による)

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