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まいにちクラシック

豊かな詩情に酔う 1957年10~11月の紙面から

ギレリス氏最後の演奏会=東京都体育館で

 日本の音楽界を完全に魅了しつくしたソ連の大ピアニスト、エミール・ギレリス氏。「華やかな技巧」「豊かな詩情」「オーケストラを圧倒するほどの力強い迫力」「ピアニシモを自在に駆使」……、どんな言葉もその音色の一面にしか光を当てられなかったようです。帰国まで続いた熱狂ぶりを、毎日新聞の当時の記事で振り返ります。


ギレリス氏の紹介

1957(昭和32)年9月1日朝刊一面

<1957(昭和32)年9月1日朝刊一面>

 エミール・ギレリス氏がモスクワの音楽界に登場したのは一九三三年の第一回全ソ連ピアニスト・コンクールからで、このコンクールで彼は十七歳で第一位となりました。それ以後彼の活躍は四半世紀を経ていまや名実ともに世界最高のピアニストといわれるほどになりました。

 氏は一九一六年十月十九日オデッサで生まれ三五年にオデッサ音楽院を卒業するとともにモスクワへ移りました。翌三六年ウイーンで催された国際ピアニスト・コンクールで第二位となり、ついで三八年ブラッセルのユージェヌ・イザイ国際コンクールで第一位を獲得しました。

 一九三八年からモスクワ国立音楽院教授となり、今日までオーストリア、ベルギー、オランダ、スイス、ポーランド、フィンランド、イタリア、チェコスロバキア、フランス、ユーゴスラビア、イギリス、アメリカ、メキシコなどを訪れていますがどこでも圧倒的な成功と人気を収めました。一九五五年のアメリカ演奏旅行の際、有名な指揮者ユージン・オルマンディ氏は「ギレリスは私がかつて聴きかつて指揮したことのあるピアニストのなかで最もすばらしいピアニストの一人である」と称賛したほどです。

 ギレリス氏はこのような輝かしい成功のゆえに、一九四六年スターリン賞を授与され、五四年にはソ連邦最高の表彰である「人民芸術家」の称号を得ました。


雄大なスケール ギレリス氏、N響と協演

1957(昭和32)年10月13日朝刊社会面

<1957(昭和32)年10月13日朝刊社会面>

 毎日新聞社の招きで来日、去る十日の第一回演奏会で“いままでに日本を訪れたもっともすばらしいピアニスト”と絶賛をあびたソ連ピアノ界の巨星エミール・ギレリス氏は十二日午後六時半から神田共立講堂で協奏曲の公演を行った。朝日新聞社村山長挙会長、作家志賀直哉氏、吉屋信子さんらを交え会場は超満員、場外にも立席券を入手できなかったファンがあきらめきれない表情で残っていた。

 ギレリス氏はウイルヘルム・ロイブナー氏指揮のNHK交響楽団とベートーベンの「ピアノ協奏曲第四番」およびチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第一番」の二曲を演奏した。栗色の髪をふりみだして力演するギレリス氏は美しいひびき、はなやかな技巧、そして雄大なスケールで堂々とオーケストラと取り組んでこゆるぎもみせないピアノは時にゆたかな詩情を会場いっぱいにあふれさせ、また時にはオーケストラを圧倒するほどの力強い迫力で聴衆を興奮にまきこんだ。なお同氏は十四日関西、九州公演のため西下する。


ピアノ演奏の進歩 ギレリス協奏曲の夕

1957(昭和32)年10月14日夕刊文化面

<1957(昭和32)年10月14日夕刊文化面>

 ギレリスが、NHK交響楽団と、二つの協奏曲(ベートーベンの第四とチャイコフスキーの第一)をひくのをきいた。第一夜の独奏会ですでにはっきりしていたことだが、ピアニストとしての彼の能力が、文字どおり驚嘆すべきものであることを何人も疑うことはできないだろう。オーケストラの豊かな響きの前で、それが一層強く印象づけられたのは当然だろう。いや、あくまでもピアノという楽器に即して、合理的につくり上げられているはずの彼のテクニックが、スタインウエイという、すばらしい楽器の表現能力をいつかこえて、本人も知らないうちに、もっと精妙な、そしてもっとダイナミックな音の世界を暗示しているのを感じるのである。

 そしてそれをきいているうちに、ぼくは、ピアノ演奏の技術の進歩ということを考えた。それは、たとえば、バックハウスの技術が我々に完成したものと感じられたということとはちっとも矛盾せずに、いまも進んでいるし、今後も進むにちがいないと思われてくるのである。つまりいままでは、音楽の美しさと全く同様に、結局のところ演奏家一人一人の問題であり、一人一人の中で完結した意味をもっていたテクニックというものが、ソ連という新しい国で、もっとはるかに合理的なものになって進歩しつづけるという印象なのだ。

 そうした考えが正しいかどうかはわからない。けれども、ギレリスがたしかにそういう印象を与えたということの中に、若い国の若い演奏家としての彼の姿があるのだとおもう。

 彼の音楽が与えてくれるものは、恐らく多くの大家たちのような、完成された美的な感動というようなものではないのだろう。彼らがもっている個性的な世界の高さとか、あるいは反対に音楽のスタイルのアカデミックな探求というようなものとは、ギレリスはかなり遠いところに立っているらしい。どんな表現にも対応できる技術が用意されていて、そこで彼の若々しい情熱がはねまわっているのだ。たとえばベートーベンの緩徐楽章で、作曲家の世界からかなり大きくはみ出しても、自分の叙情を歌わなければならなかったのも、また逆に、チャイコフスキーの音楽に特有な、深い感情の陰影に、無理に追従しようとしなかったのも、この素朴な演奏家としては十分に理解できる。そして同じように若い日本の聴衆が、そこにいわば本能的な共感をもったのも当然なのだと思われる。

=十二日共立講堂(遠山一行)


豊かな詩情に酔う ギレリス氏第三回東京公演

1957(昭和32)年11月3日朝刊社会面

<1957(昭和32)年11月3日朝刊社会面>

 全国各地を演奏し絶賛を浴びているエミール・ギレリス氏の東京での第三回公演が二日午後二時半から神田共立講堂で催された。聴衆は二千人をこえ、超満員の盛況。東大教授丸山真男、立大教授武谷三男、女優山田五十鈴さんなど著名人の顔も多数見えた。

 この日は独奏会で曲目はブラームス「幻想曲作品一一六」、ショパン「葬送行進曲」、ワインベルグ「奏鳴曲ロ短調作品五六」、プロコフィエフ「束の間の幻影」、同「トッカータニ短調作品一一」の五つ。なかでもワインベルグの作品は日本では初演奏だというので聴衆の心を奪った。

 ギレリス氏はこの日も終始すばらしいダイナミックさと微妙なピアニシモ(極めて弱い音)を自在に駆使し定評ある豊かな表現力で聴衆を完全に陶酔させた。


迫る!技巧の妙音 ギレリス氏の“協奏曲の夕”

1957(昭和32)年11月4日朝刊社会面

<1957(昭和32)年11月4日朝刊社会面>

 その絶妙な音の世界に、日本の音楽ファンを包みこんだソ連ピアノ界の巨星エミール・ギレリス氏の公式公演最終日“協奏曲の夕”は、三日午後六時半から日比谷公会堂で開かれた。この夜も場内は超満員、宮本三郎、高畠達四郎氏ら有名人も多数来聴。

 上田仁氏指揮の東京交響楽団の協奏にギレリス氏はモーツァルトの歌劇「後宮よりの遁走」への序曲、プロコフィエフの「ピアノ協奏曲三番」を演奏、はげしい興奮に包まれた聴衆のアンコールにこたえて、小品二曲を演奏、感激のうちに八時半すぎ幕をとじた。

 なおギレリス氏は四日夜の「大衆演奏会」を行って、全日程を終了、九日空路帰国する。


七千の聴衆を魅了 ギレリス氏最後の大衆演奏会

1957(昭和32)年11月5日朝刊社会面

<1957(昭和32)年11月5日朝刊社会面>

 日本の音楽界を完全に魅了しつくしたソ連の大ピアニスト、エミール・ギレリス氏の大衆演奏会は日ソ協会、毎日新聞社主催で四日午後六時半から千駄ケ谷の都体育館で開かれた。定刻前から学生など若いファン七千人がつめかけ、作家田中澄江さん、藤森成吉氏、早大教授黒田辰男氏、作曲家箕作秋吉氏、野溝勝社会党議員ら有名人やソ連大使館ザブロージン代理大使をはじめ大使館員約二十人の姿も見えた。

 演奏会は日ソ協会鳩山薫子夫人のあいさつに始まり、上田仁氏指揮東京交響楽団の「ルスランとリュドミラ」序曲、プロコフィエフ交響曲第七番の演奏があった後、ギレリス氏がその若々しい姿を現した。曲目はむずかしい技巧で名高いチャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番。それをギレリス氏は雄大、豪壮のうちにロシア人特有の感傷的な憂うつさをたたえて演奏した。激しい興奮に包まれたファンから拍手のアラシがまき起こった。アンコールにこたえてギレリス氏は小品一曲を演奏、同八時十五分会を閉じた。


ギレリス氏が帰国

<1957(昭和32)年11月10日朝刊社会面>

 十月七日に来日して以来、全国各地で公演したソ連のピアニスト、エミール・ギレリス氏は九日午後九時羽田発SAS機で帰国した。


 「まいにちクラシック」は随時掲載します。

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