広島原爆アーカイブ

被爆3日後の惨状生々しく 毎日新聞記者が撮った40枚の写真

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  • 原爆投下3日後に国平幸男記者が撮影したポイントと推定ルート
    原爆投下3日後に国平幸男記者が撮影したポイントと推定ルート
  • (1)広島駅を南から北北東に向いて撮影。正面2階にあった待合室と出札室は爆風で倒壊。本体の屋根は押し下げられ変形、破損した。その後の類焼で駅舎は全焼、屋根も崩壊した。後方左が二葉山。駅前や構内に大勢の人影が見える(爆心地から1900メートル)=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (1)広島駅を南から北北東に向いて撮影。正面2階にあった待合室と出札室は爆風で倒壊。本体の屋根は押し下げられ変形、破損した。その後の類焼で駅舎は全焼、屋根も崩壊した。後方左が二葉山。駅前や構内に大勢の人影が見える(爆心地から1900メートル)=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (1)現在のJR広島駅(南から撮影)=広島市南区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
    (1)現在のJR広島駅(南から撮影)=広島市南区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (2)稲荷町(現広島市南区稲荷町)の京橋川河岸に近い防空壕に開設された町会事務所。「稲荷町西組町事務所」の文字が読める。左奥に広島中央放送局らしき建物と、中央に近い部分に橋本町の河岸にあった鳥居(市村海姫大明神か)が見える。女性の背後に自転車がある(爆心地から1500メートル)=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (2)稲荷町(現広島市南区稲荷町)の京橋川河岸に近い防空壕に開設された町会事務所。「稲荷町西組町事務所」の文字が読める。左奥に広島中央放送局らしき建物と、中央に近い部分に橋本町の河岸にあった鳥居(市村海姫大明神か)が見える。女性の背後に自転車がある(爆心地から1500メートル)=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (2)広島市南区稲荷町の京橋川左岸から西方向を撮影。国平幸男記者が撮影した1945年8月9日当時の防空壕は、この辺りにあったとみられる=2017年2月6日、山田尚弘撮影
    (2)広島市南区稲荷町の京橋川左岸から西方向を撮影。国平幸男記者が撮影した1945年8月9日当時の防空壕は、この辺りにあったとみられる=2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (3)京橋川に架かる京橋の西詰めから西側をパノラマ状に撮影した写真7枚をつないだ。(一部写真が欠けている)左端は京橋川にかかる稲荷町電車専用橋。幹線道路のがれきは取り払われ、肉親や知人を捜しに来たと思われる人々が行き交う。左奥の四角い建物は臨時県庁が置かれた広島東警察署。その右の焼けた木々の奥には(左から)日本勧業銀行広島支店、中国新聞社、福屋、少し離れて広島中央放送局。右端は京橋川上流の栄橋。その奥は二葉山(爆心地から1400メートル)=広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (3)京橋川に架かる京橋の西詰めから西側をパノラマ状に撮影した写真7枚をつないだ。(一部写真が欠けている)左端は京橋川にかかる稲荷町電車専用橋。幹線道路のがれきは取り払われ、肉親や知人を捜しに来たと思われる人々が行き交う。左奥の四角い建物は臨時県庁が置かれた広島東警察署。その右の焼けた木々の奥には(左から)日本勧業銀行広島支店、中国新聞社、福屋、少し離れて広島中央放送局。右端は京橋川上流の栄橋。その奥は二葉山(爆心地から1400メートル)=広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (3)パノラマ左 京橋川に架かる京橋の西詰めで南東から西を撮影。幹線道路のがれきは取り払われ、肉親や知人らを捜しに来たと思われる人々が行き交う。左奥に架かるのは稲荷町電車専用橋。中央右奥の四角い建物は臨時県庁が置かれた広島東警察署。(爆心地から1400メートル)=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館検証)検証
    (3)パノラマ左 京橋川に架かる京橋の西詰めで南東から西を撮影。幹線道路のがれきは取り払われ、肉親や知人らを捜しに来たと思われる人々が行き交う。左奥に架かるのは稲荷町電車専用橋。中央右奥の四角い建物は臨時県庁が置かれた広島東警察署。(爆心地から1400メートル)=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館検証)検証
  • (3)パノラマ中 京橋川に架かる京橋の西詰めで西から北西を撮影。幹線道路のがれきは取り払われている。焼け野原のかなたに倒壊しなかった建物群が見える(爆心地から1400メートル)=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館検証)検証
    (3)パノラマ中 京橋川に架かる京橋の西詰めで西から北西を撮影。幹線道路のがれきは取り払われている。焼け野原のかなたに倒壊しなかった建物群が見える(爆心地から1400メートル)=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館検証)検証
  • (3)パノラマ右 京橋川に架かる京橋の西詰めで北西から北を撮影。右奥に架かるのは栄橋。その奥は二葉山(爆心地から1400メートル)=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館検証)検証
    (3)パノラマ右 京橋川に架かる京橋の西詰めで北西から北を撮影。右奥に架かるのは栄橋。その奥は二葉山(爆心地から1400メートル)=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館検証)検証
  • (3)京橋東詰め付近のビルから西側の広島市街地。手前左に架かる橋は稲荷大橋(被爆当時は稲荷町電車専用橋)。手前右が京橋、右奥が栄橋=広島市南区で2017年2月6日、山田尚弘撮影(9枚を合成)
    (3)京橋東詰め付近のビルから西側の広島市街地。手前左に架かる橋は稲荷大橋(被爆当時は稲荷町電車専用橋)。手前右が京橋、右奥が栄橋=広島市南区で2017年2月6日、山田尚弘撮影(9枚を合成)
  • (4)被爆後の8月7日から臨時の広島県庁が置かれた広島東警察署(広島市下柳町、現広島市中区銀山町)には救援物資が次々と運び込まれた。元々は芸備銀行(現広島銀行)の下柳町支店だった=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (4)被爆後の8月7日から臨時の広島県庁が置かれた広島東警察署(広島市下柳町、現広島市中区銀山町)には救援物資が次々と運び込まれた。元々は芸備銀行(現広島銀行)の下柳町支店だった=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (4)被爆直後に臨時広島県庁となった建物の跡地には広島銀行銀山町支店が建つ=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
    (4)被爆直後に臨時広島県庁となった建物の跡地には広島銀行銀山町支店が建つ=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (4)被爆当時は臨時広島県庁が置かれた建物の跡地には広島銀行銀山町支店が建つ。当時北西角にあった玄関は西側に移設されている=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
    (4)被爆当時は臨時広島県庁が置かれた建物の跡地には広島銀行銀山町支店が建つ。当時北西角にあった玄関は西側に移設されている=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (5)広島流川教会南側の電車通り沿いにあった防空壕を北東方向に撮影。教会の屋根は焼け落ち、鉄筋コンクリートでできた塔と壁が焼け残った(爆心地から870メートル)=広島市上流川町(現広島市中区鉄砲町)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (5)広島流川教会南側の電車通り沿いにあった防空壕を北東方向に撮影。教会の屋根は焼け落ち、鉄筋コンクリートでできた塔と壁が焼け残った(爆心地から870メートル)=広島市上流川町(現広島市中区鉄砲町)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (5)薬研堀通北交差点西側の歩道橋から西を撮影。広島三越(左)の場所は被爆当時に中国新聞社があり、写真の右手には広島流川教会があった=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
    (5)薬研堀通北交差点西側の歩道橋から西を撮影。広島三越(左)の場所は被爆当時に中国新聞社があり、写真の右手には広島流川教会があった=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (6)中国新聞社新館を北西から南東に撮影。左隣は中国新聞社本館。さらにその隣は日本勧業銀行広島支店。左下の電車は被爆した400形の残骸。鉄筋コンクリート造7階建ての新館は、閃光と同時に窓ガラスが吹き飛び、続いて窓から炎が噴き出して、新聞発行の設備機材がすべて焼失。社屋は外郭を残して全焼した(爆心地から870メートル)=広島市上流川町(現広島市中区胡町)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (6)中国新聞社新館を北西から南東に撮影。左隣は中国新聞社本館。さらにその隣は日本勧業銀行広島支店。左下の電車は被爆した400形の残骸。鉄筋コンクリート造7階建ての新館は、閃光と同時に窓ガラスが吹き飛び、続いて窓から炎が噴き出して、新聞発行の設備機材がすべて焼失。社屋は外郭を残して全焼した(爆心地から870メートル)=広島市上流川町(現広島市中区胡町)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (6)中国新聞社新館の1階北側正面。つぶれた乗用車やオートバイが散乱している。(爆心地から870メートル)=広島市上流川町(現広島市中区胡町)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (6)中国新聞社新館の1階北側正面。つぶれた乗用車やオートバイが散乱している。(爆心地から870メートル)=広島市上流川町(現広島市中区胡町)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (6)中国新聞社の跡地には広島三越が建ち、繁華街の顔になった=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
    (6)中国新聞社の跡地には広島三越が建ち、繁華街の顔になった=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (7)福屋百貨店前から東を撮影。左は福屋旧館、右側手前から福屋新館、中国新聞社、日本勧業銀行広島支店。福屋新館の内部は完全に焼失。数日後、血便が出る被爆者を赤痢患者として収容した。この臨時伝染病病院は、原爆症の症状が明らかとなるまで約1カ月間使用された(爆心地から740メートル)=広島市の八丁堀(現広島市中区八丁堀)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (7)福屋百貨店前から東を撮影。左は福屋旧館、右側手前から福屋新館、中国新聞社、日本勧業銀行広島支店。福屋新館の内部は完全に焼失。数日後、血便が出る被爆者を赤痢患者として収容した。この臨時伝染病病院は、原爆症の症状が明らかとなるまで約1カ月間使用された(爆心地から740メートル)=広島市の八丁堀(現広島市中区八丁堀)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (7)爆風で破壊された福屋百貨店新館西面の鉄製シャッター(爆心地から710メートル)=広島市の八丁堀(現広島市中区八丁堀)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (7)爆風で破壊された福屋百貨店新館西面の鉄製シャッター(爆心地から710メートル)=広島市の八丁堀(現広島市中区八丁堀)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (7)福屋百貨店(右)付近から東を撮影。右奥の広島三越の場所には被爆当時、中国新聞社があった=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
    (7)福屋百貨店(右)付近から東を撮影。右奥の広島三越の場所には被爆当時、中国新聞社があった=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (8)爆風で折れた火見櫓(立町口御門西側櫓台、広島市水道部基町庁舎作業場の東隣)。現在の「立町」電停付近から北を撮影。奥は軍用地(爆心地から600メートル)=広島市基町(現広島市中区基町)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (8)爆風で折れた火見櫓(立町口御門西側櫓台、広島市水道部基町庁舎作業場の東隣)。現在の「立町」電停付近から北を撮影。奥は軍用地(爆心地から600メートル)=広島市基町(現広島市中区基町)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (8)立町電停交差点の南から北を撮影。国平幸男記者が撮影した1945年8月9日当時、左の街路樹付近に火見櫓が爆風で倒れていた=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
    (8)立町電停交差点の南から北を撮影。国平幸男記者が撮影した1945年8月9日当時、左の街路樹付近に火見櫓が爆風で倒れていた=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (9)本通・播磨屋町(現広島市中区本通3~4番地)付近から東を撮影。手前に倒れているのは商店の多かった本通沿いに立ち並んでいた鉄製の電柱。奥の建物は左から商工組合中央金庫広島支所、福屋旧館、福屋新館、中国新聞社、大林組広島支店。(爆心地から450メートル)=広島市播磨屋町で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (9)本通・播磨屋町(現広島市中区本通3~4番地)付近から東を撮影。手前に倒れているのは商店の多かった本通沿いに立ち並んでいた鉄製の電柱。奥の建物は左から商工組合中央金庫広島支所、福屋旧館、福屋新館、中国新聞社、大林組広島支店。(爆心地から450メートル)=広島市播磨屋町で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (9)にぎわいを見せる広島本通商店街。国平幸男記者が撮影した1945年8月9日当時、左手前付近には大林組広島支店があった=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
    (9)にぎわいを見せる広島本通商店街。国平幸男記者が撮影した1945年8月9日当時、左手前付近には大林組広島支店があった=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (10)被爆して倒れた国泰寺のクスノキ。左奥は日本銀行広島支店、そのすぐ右側に山陽記念館の屋根の一部が見える(爆心地から500メートル)=広島市小町(現広島市中区小町)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (10)被爆して倒れた国泰寺のクスノキ。左奥は日本銀行広島支店、そのすぐ右側に山陽記念館の屋根の一部が見える(爆心地から500メートル)=広島市小町(現広島市中区小町)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (10)大クスノキで知られた国泰寺の跡地にはホテルが建ち、愛宕池跡(手前)だけが往時をしのばせる=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
    (10)大クスノキで知られた国泰寺の跡地にはホテルが建ち、愛宕池跡(手前)だけが往時をしのばせる=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (11)大手町筋にあった毎日新聞広島支局の焼跡から南を撮影。支局は木造で完全に焼失した。中央奥は広島県農業会広島支所、左端は日本貯蓄銀行広島支店(爆心地から290メートル)=広島市大手町3丁目(現広島市中区大手町2丁目)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (11)大手町筋にあった毎日新聞広島支局の焼跡から南を撮影。支局は木造で完全に焼失した。中央奥は広島県農業会広島支所、左端は日本貯蓄銀行広島支店(爆心地から290メートル)=広島市大手町3丁目(現広島市中区大手町2丁目)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (11)毎日新聞広島支局跡周辺から南を撮影=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影(画像の一部を加工しています)
    (11)毎日新聞広島支局跡周辺から南を撮影=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影(画像の一部を加工しています)
  • (11)大手町筋にあった毎日新聞広島支局の焼跡から北西を撮影。支局は木造で、完全に焼失した。奥の左寄りに燃料会館(現在のレストハウス)、右には広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)が見える(爆心地から290メートル)=広島市大手町3丁目(現広島市中区大手町2丁目)1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (11)大手町筋にあった毎日新聞広島支局の焼跡から北西を撮影。支局は木造で、完全に焼失した。奥の左寄りに燃料会館(現在のレストハウス)、右には広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)が見える(爆心地から290メートル)=広島市大手町3丁目(現広島市中区大手町2丁目)1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (11)毎日新聞広島支局跡周辺(手前右)から北西を撮影。左奥は平和記念公園。木々に囲まれた建物はレストハウス(旧燃料会館)、中央奥には原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)が見える=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
    (11)毎日新聞広島支局跡周辺(手前右)から北西を撮影。左奥は平和記念公園。木々に囲まれた建物はレストハウス(旧燃料会館)、中央奥には原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)が見える=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (11)大手町筋にあった毎日新聞広島支局の焼け跡前から北を撮影。左奥は広島瓦斯(現広島ガス)本社、右奥の手前から広島銀行集会所、日本生命広島支店、三和銀行広島支店(爆心地から290メートル)=広島市大手町3丁目(現広島市中区大手町2丁目)1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (11)大手町筋にあった毎日新聞広島支局の焼け跡前から北を撮影。左奥は広島瓦斯(現広島ガス)本社、右奥の手前から広島銀行集会所、日本生命広島支店、三和銀行広島支店(爆心地から290メートル)=広島市大手町3丁目(現広島市中区大手町2丁目)1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (11)毎日新聞広島支局跡周辺から北を撮影=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影(画像の一部を加工しています)
    (11)毎日新聞広島支局跡周辺から北を撮影=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影(画像の一部を加工しています)
  • (12)広島瓦斯(現広島ガス)本社の南面。爆心地から至近距離にあった建物は南西の角を残して崩壊、全焼した。火災は2日間続いたという(爆心地から210メートル)=広島市大手町3丁目(現広島市中区大手町2丁目)1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (12)広島瓦斯(現広島ガス)本社の南面。爆心地から至近距離にあった建物は南西の角を残して崩壊、全焼した。火災は2日間続いたという(爆心地から210メートル)=広島市大手町3丁目(現広島市中区大手町2丁目)1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (12)広島瓦斯(現広島ガス)本社の北東角から南西を撮影。バルコニーを支える柱が残っている部分が正面玄関。爆心地から至近距離にあった建物は南西の角を残して崩壊、全焼した。火災は2日間続いたという(爆心地から210メートル)=広島市大手町3丁目(現広島市中区大手町2丁目)1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (12)広島瓦斯(現広島ガス)本社の北東角から南西を撮影。バルコニーを支える柱が残っている部分が正面玄関。爆心地から至近距離にあった建物は南西の角を残して崩壊、全焼した。火災は2日間続いたという(爆心地から210メートル)=広島市大手町3丁目(現広島市中区大手町2丁目)1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (12)原爆で崩壊した広島瓦斯(現広島ガス)本社の跡地は大手町第一公園に様変わりした=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
    (12)原爆で崩壊した広島瓦斯(現広島ガス)本社の跡地は大手町第一公園に様変わりした=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (13)紙屋町交差点南東角の電車の残骸。手前は100形電車、奥は200形の205号。右端後ろに見えるのは、大林組広島支店と安田銀行広島支店(爆心地から300メートル)=広島市の紙屋町交差点で1945年8月9日、日本路面電車同好会中国支部代表の加藤一孝氏検証
    (13)紙屋町交差点南東角の電車の残骸。手前は100形電車、奥は200形の205号。右端後ろに見えるのは、大林組広島支店と安田銀行広島支店(爆心地から300メートル)=広島市の紙屋町交差点で1945年8月9日、日本路面電車同好会中国支部代表の加藤一孝氏検証
  • (13)紙屋町交差点の南西角から南東角(中央)を撮影。国平幸男記者が撮影した1945年8月9日当時、南東角には路面電車の残骸があった=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影(画像の一部を加工しています)
    (13)紙屋町交差点の南西角から南東角(中央)を撮影。国平幸男記者が撮影した1945年8月9日当時、南東角には路面電車の残骸があった=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影(画像の一部を加工しています)
  • (13)紙屋町交差点から東(八丁堀方面)を撮影。広島駅方面または紙屋町方面に向かってたくさんの人々が歩き、トラックの姿もある。電車通りの奥は(左から)福屋旧館、商工組合中央金庫広島支所、その奥に福屋新館(爆心地から280メートル)=広島市の紙屋町交差点で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (13)紙屋町交差点から東(八丁堀方面)を撮影。広島駅方面または紙屋町方面に向かってたくさんの人々が歩き、トラックの姿もある。電車通りの奥は(左から)福屋旧館、商工組合中央金庫広島支所、その奥に福屋新館(爆心地から280メートル)=広島市の紙屋町交差点で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (13)紙屋町交差点北から西練兵場などがあった北側の軍用地をパノラマ撮影(5枚を合成)。広島第一陸軍病院第一分院などが焼失している=1945年8月9日、広島城主任学芸員の玉置和弘氏検証
    (13)紙屋町交差点北から西練兵場などがあった北側の軍用地をパノラマ撮影(5枚を合成)。広島第一陸軍病院第一分院などが焼失している=1945年8月9日、広島城主任学芸員の玉置和弘氏検証
  • (13)パノラマ左 紙屋町交差点北から西練兵場などがあった北側の軍用地をパノラマ撮影(5枚を合成)。広島第一陸軍病院第一分院などが焼失している=1945年8月9日、広島城主任学芸員の玉置和弘氏検証
    (13)パノラマ左 紙屋町交差点北から西練兵場などがあった北側の軍用地をパノラマ撮影(5枚を合成)。広島第一陸軍病院第一分院などが焼失している=1945年8月9日、広島城主任学芸員の玉置和弘氏検証
  • (13)パノラマ中 紙屋町交差点北から西練兵場などがあった北側の軍用地をパノラマ撮影(5枚を合成)。広島第一陸軍病院第一分院などが焼失している=1945年8月9日、広島城主任学芸員の玉置和弘氏検証
    (13)パノラマ中 紙屋町交差点北から西練兵場などがあった北側の軍用地をパノラマ撮影(5枚を合成)。広島第一陸軍病院第一分院などが焼失している=1945年8月9日、広島城主任学芸員の玉置和弘氏検証
  • (13)パノラマ右 紙屋町交差点北から西練兵場などがあった北側の軍用地をパノラマ撮影(5枚を合成)。広島第一陸軍病院第一分院などが焼失している=1945年8月9日、広島城主任学芸員の玉置和弘氏検証
    (13)パノラマ右 紙屋町交差点北から西練兵場などがあった北側の軍用地をパノラマ撮影(5枚を合成)。広島第一陸軍病院第一分院などが焼失している=1945年8月9日、広島城主任学芸員の玉置和弘氏検証
  • (13)紙屋町交差点南西角から撮影した広島の市街地。交差点中央の奥に広島県庁が見える北側は被爆当時、軍用地だった=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影(4枚を合成、画像の一部を加工しています)
    (13)紙屋町交差点南西角から撮影した広島の市街地。交差点中央の奥に広島県庁が見える北側は被爆当時、軍用地だった=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影(4枚を合成、画像の一部を加工しています)
  • (14)茎だけが残る広島城の堀のハス(爆心地から980メートル)=現広島市中区基町で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (14)茎だけが残る広島城の堀のハス(爆心地から980メートル)=現広島市中区基町で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (14)二つに折れた広島城内のクスノキ(爆心地から980メートル)=現広島市中区基町で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (14)二つに折れた広島城内のクスノキ(爆心地から980メートル)=現広島市中区基町で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (14)負傷した松村秀逸中国軍管区参謀長。中国軍管区司令部・防空作戦室(現広島市中区基町)前のテント内で撮影したと思われる(爆心地から790メートル)=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (14)負傷した松村秀逸中国軍管区参謀長。中国軍管区司令部・防空作戦室(現広島市中区基町)前のテント内で撮影したと思われる(爆心地から790メートル)=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (14)広島城の城郭建築は原爆投下で倒壊か焼失。天守閣は1958年に再建された=広島市中区で2017年2月13日、山田尚弘撮影
    (14)広島城の城郭建築は原爆投下で倒壊か焼失。天守閣は1958年に再建された=広島市中区で2017年2月13日、山田尚弘撮影
  • (14)原爆で焼かれた広島城のクスノキ。広島城の城郭建築は原爆投下で倒壊か焼失。天守閣は1958年に再建された=広島市中区で2017年2月13日、山田尚弘撮影
    (14)原爆で焼かれた広島城のクスノキ。広島城の城郭建築は原爆投下で倒壊か焼失。天守閣は1958年に再建された=広島市中区で2017年2月13日、山田尚弘撮影
  • (15)爆風で欄干が吹き倒された常葉橋を西から撮影。多くの人々が往来している(爆心地から1550メートル)=広島市の常葉橋西詰め(現広島市中区東白島町)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (15)爆風で欄干が吹き倒された常葉橋を西から撮影。多くの人々が往来している(爆心地から1550メートル)=広島市の常葉橋西詰め(現広島市中区東白島町)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (15)現在の常葉橋。西から東方向を撮影=広島市南区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
    (15)現在の常葉橋。西から東方向を撮影=広島市南区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (16)爆風で折れた饒津神社境内の松(爆心地から1800メートル)=広島市二葉の里(現広島市東区二葉の里)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (16)爆風で折れた饒津神社境内の松(爆心地から1800メートル)=広島市二葉の里(現広島市東区二葉の里)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (16)饒津神社。原爆の爆風に耐えた松も全て枯れてしまった=広島市東区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
    (16)饒津神社。原爆の爆風に耐えた松も全て枯れてしまった=広島市東区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (17)土塀が割れ、半壊した家屋。二葉山南西側のふもと付近とみられる(爆心地から1600メートル)=広島市二葉の里(現広島市東区二葉の里、丁目は特定できず)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (17)土塀が割れ、半壊した家屋。二葉山南西側のふもと付近とみられる(爆心地から1600メートル)=広島市二葉の里(現広島市東区二葉の里、丁目は特定できず)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (17)倒壊した家屋(爆心地から1600メートル)=広島市二葉の里(現広島市東区二葉の里)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (17)倒壊した家屋(爆心地から1600メートル)=広島市二葉の里(現広島市東区二葉の里)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (17)倒壊した家屋。二葉山ふもとと考えられる(爆心地から1600メートル)=広島市二葉の里(現広島市東区二葉の里)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    (17)倒壊した家屋。二葉山ふもとと考えられる(爆心地から1600メートル)=広島市二葉の里(現広島市東区二葉の里)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (17)現在の二葉の里。被爆当時は周辺に軍用地があった=広島市東区で2017年2月6日、山田尚弘撮影(画像の一部を加工しています)
    (17)現在の二葉の里。被爆当時は周辺に軍用地があった=広島市東区で2017年2月6日、山田尚弘撮影(画像の一部を加工しています)
  • つぶれた防空壕。撮影地点は不明だが、右端に見える稜線は比治山。背後の電車通りに人影がたくさん見えることから、紙屋町交差点(現広島市中区紙屋町)付近の可能性がある=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    つぶれた防空壕。撮影地点は不明だが、右端に見える稜線は比治山。背後の電車通りに人影がたくさん見えることから、紙屋町交差点(現広島市中区紙屋町)付近の可能性がある=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • 爆風に吹き飛ばされたガラスや砂で顔一面に負傷した少女=詳細な撮影場所は不明1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
    爆風に吹き飛ばされたガラスや砂で顔一面に負傷した少女=詳細な撮影場所は不明1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • 原爆投下3日後に国平幸男記者が撮影したポイントと推定ルート
  • (1)広島駅を南から北北東に向いて撮影。正面2階にあった待合室と出札室は爆風で倒壊。本体の屋根は押し下げられ変形、破損した。その後の類焼で駅舎は全焼、屋根も崩壊した。後方左が二葉山。駅前や構内に大勢の人影が見える(爆心地から1900メートル)=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (1)現在のJR広島駅(南から撮影)=広島市南区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (2)稲荷町(現広島市南区稲荷町)の京橋川河岸に近い防空壕に開設された町会事務所。「稲荷町西組町事務所」の文字が読める。左奥に広島中央放送局らしき建物と、中央に近い部分に橋本町の河岸にあった鳥居(市村海姫大明神か)が見える。女性の背後に自転車がある(爆心地から1500メートル)=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (2)広島市南区稲荷町の京橋川左岸から西方向を撮影。国平幸男記者が撮影した1945年8月9日当時の防空壕は、この辺りにあったとみられる=2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (3)京橋川に架かる京橋の西詰めから西側をパノラマ状に撮影した写真7枚をつないだ。(一部写真が欠けている)左端は京橋川にかかる稲荷町電車専用橋。幹線道路のがれきは取り払われ、肉親や知人を捜しに来たと思われる人々が行き交う。左奥の四角い建物は臨時県庁が置かれた広島東警察署。その右の焼けた木々の奥には(左から)日本勧業銀行広島支店、中国新聞社、福屋、少し離れて広島中央放送局。右端は京橋川上流の栄橋。その奥は二葉山(爆心地から1400メートル)=広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (3)パノラマ左 京橋川に架かる京橋の西詰めで南東から西を撮影。幹線道路のがれきは取り払われ、肉親や知人らを捜しに来たと思われる人々が行き交う。左奥に架かるのは稲荷町電車専用橋。中央右奥の四角い建物は臨時県庁が置かれた広島東警察署。(爆心地から1400メートル)=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館検証)検証
  • (3)パノラマ中 京橋川に架かる京橋の西詰めで西から北西を撮影。幹線道路のがれきは取り払われている。焼け野原のかなたに倒壊しなかった建物群が見える(爆心地から1400メートル)=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館検証)検証
  • (3)パノラマ右 京橋川に架かる京橋の西詰めで北西から北を撮影。右奥に架かるのは栄橋。その奥は二葉山(爆心地から1400メートル)=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館検証)検証
  • (3)京橋東詰め付近のビルから西側の広島市街地。手前左に架かる橋は稲荷大橋(被爆当時は稲荷町電車専用橋)。手前右が京橋、右奥が栄橋=広島市南区で2017年2月6日、山田尚弘撮影(9枚を合成)
  • (4)被爆後の8月7日から臨時の広島県庁が置かれた広島東警察署(広島市下柳町、現広島市中区銀山町)には救援物資が次々と運び込まれた。元々は芸備銀行(現広島銀行)の下柳町支店だった=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (4)被爆直後に臨時広島県庁となった建物の跡地には広島銀行銀山町支店が建つ=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (4)被爆当時は臨時広島県庁が置かれた建物の跡地には広島銀行銀山町支店が建つ。当時北西角にあった玄関は西側に移設されている=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (5)広島流川教会南側の電車通り沿いにあった防空壕を北東方向に撮影。教会の屋根は焼け落ち、鉄筋コンクリートでできた塔と壁が焼け残った(爆心地から870メートル)=広島市上流川町(現広島市中区鉄砲町)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (5)薬研堀通北交差点西側の歩道橋から西を撮影。広島三越(左)の場所は被爆当時に中国新聞社があり、写真の右手には広島流川教会があった=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (6)中国新聞社新館を北西から南東に撮影。左隣は中国新聞社本館。さらにその隣は日本勧業銀行広島支店。左下の電車は被爆した400形の残骸。鉄筋コンクリート造7階建ての新館は、閃光と同時に窓ガラスが吹き飛び、続いて窓から炎が噴き出して、新聞発行の設備機材がすべて焼失。社屋は外郭を残して全焼した(爆心地から870メートル)=広島市上流川町(現広島市中区胡町)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (6)中国新聞社新館の1階北側正面。つぶれた乗用車やオートバイが散乱している。(爆心地から870メートル)=広島市上流川町(現広島市中区胡町)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (6)中国新聞社の跡地には広島三越が建ち、繁華街の顔になった=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (7)福屋百貨店前から東を撮影。左は福屋旧館、右側手前から福屋新館、中国新聞社、日本勧業銀行広島支店。福屋新館の内部は完全に焼失。数日後、血便が出る被爆者を赤痢患者として収容した。この臨時伝染病病院は、原爆症の症状が明らかとなるまで約1カ月間使用された(爆心地から740メートル)=広島市の八丁堀(現広島市中区八丁堀)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (7)爆風で破壊された福屋百貨店新館西面の鉄製シャッター(爆心地から710メートル)=広島市の八丁堀(現広島市中区八丁堀)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (7)福屋百貨店(右)付近から東を撮影。右奥の広島三越の場所には被爆当時、中国新聞社があった=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (8)爆風で折れた火見櫓(立町口御門西側櫓台、広島市水道部基町庁舎作業場の東隣)。現在の「立町」電停付近から北を撮影。奥は軍用地(爆心地から600メートル)=広島市基町(現広島市中区基町)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (8)立町電停交差点の南から北を撮影。国平幸男記者が撮影した1945年8月9日当時、左の街路樹付近に火見櫓が爆風で倒れていた=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (9)本通・播磨屋町(現広島市中区本通3~4番地)付近から東を撮影。手前に倒れているのは商店の多かった本通沿いに立ち並んでいた鉄製の電柱。奥の建物は左から商工組合中央金庫広島支所、福屋旧館、福屋新館、中国新聞社、大林組広島支店。(爆心地から450メートル)=広島市播磨屋町で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (9)にぎわいを見せる広島本通商店街。国平幸男記者が撮影した1945年8月9日当時、左手前付近には大林組広島支店があった=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (10)被爆して倒れた国泰寺のクスノキ。左奥は日本銀行広島支店、そのすぐ右側に山陽記念館の屋根の一部が見える(爆心地から500メートル)=広島市小町(現広島市中区小町)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (10)大クスノキで知られた国泰寺の跡地にはホテルが建ち、愛宕池跡(手前)だけが往時をしのばせる=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (11)大手町筋にあった毎日新聞広島支局の焼跡から南を撮影。支局は木造で完全に焼失した。中央奥は広島県農業会広島支所、左端は日本貯蓄銀行広島支店(爆心地から290メートル)=広島市大手町3丁目(現広島市中区大手町2丁目)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (11)毎日新聞広島支局跡周辺から南を撮影=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影(画像の一部を加工しています)
  • (11)大手町筋にあった毎日新聞広島支局の焼跡から北西を撮影。支局は木造で、完全に焼失した。奥の左寄りに燃料会館(現在のレストハウス)、右には広島県産業奨励館(現在の原爆ドーム)が見える(爆心地から290メートル)=広島市大手町3丁目(現広島市中区大手町2丁目)1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (11)毎日新聞広島支局跡周辺(手前右)から北西を撮影。左奥は平和記念公園。木々に囲まれた建物はレストハウス(旧燃料会館)、中央奥には原爆ドーム(旧広島県産業奨励館)が見える=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (11)大手町筋にあった毎日新聞広島支局の焼け跡前から北を撮影。左奥は広島瓦斯(現広島ガス)本社、右奥の手前から広島銀行集会所、日本生命広島支店、三和銀行広島支店(爆心地から290メートル)=広島市大手町3丁目(現広島市中区大手町2丁目)1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (11)毎日新聞広島支局跡周辺から北を撮影=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影(画像の一部を加工しています)
  • (12)広島瓦斯(現広島ガス)本社の南面。爆心地から至近距離にあった建物は南西の角を残して崩壊、全焼した。火災は2日間続いたという(爆心地から210メートル)=広島市大手町3丁目(現広島市中区大手町2丁目)1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (12)広島瓦斯(現広島ガス)本社の北東角から南西を撮影。バルコニーを支える柱が残っている部分が正面玄関。爆心地から至近距離にあった建物は南西の角を残して崩壊、全焼した。火災は2日間続いたという(爆心地から210メートル)=広島市大手町3丁目(現広島市中区大手町2丁目)1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (12)原爆で崩壊した広島瓦斯(現広島ガス)本社の跡地は大手町第一公園に様変わりした=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (13)紙屋町交差点南東角の電車の残骸。手前は100形電車、奥は200形の205号。右端後ろに見えるのは、大林組広島支店と安田銀行広島支店(爆心地から300メートル)=広島市の紙屋町交差点で1945年8月9日、日本路面電車同好会中国支部代表の加藤一孝氏検証
  • (13)紙屋町交差点の南西角から南東角(中央)を撮影。国平幸男記者が撮影した1945年8月9日当時、南東角には路面電車の残骸があった=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影(画像の一部を加工しています)
  • (13)紙屋町交差点から東(八丁堀方面)を撮影。広島駅方面または紙屋町方面に向かってたくさんの人々が歩き、トラックの姿もある。電車通りの奥は(左から)福屋旧館、商工組合中央金庫広島支所、その奥に福屋新館(爆心地から280メートル)=広島市の紙屋町交差点で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (13)紙屋町交差点北から西練兵場などがあった北側の軍用地をパノラマ撮影(5枚を合成)。広島第一陸軍病院第一分院などが焼失している=1945年8月9日、広島城主任学芸員の玉置和弘氏検証
  • (13)パノラマ左 紙屋町交差点北から西練兵場などがあった北側の軍用地をパノラマ撮影(5枚を合成)。広島第一陸軍病院第一分院などが焼失している=1945年8月9日、広島城主任学芸員の玉置和弘氏検証
  • (13)パノラマ中 紙屋町交差点北から西練兵場などがあった北側の軍用地をパノラマ撮影(5枚を合成)。広島第一陸軍病院第一分院などが焼失している=1945年8月9日、広島城主任学芸員の玉置和弘氏検証
  • (13)パノラマ右 紙屋町交差点北から西練兵場などがあった北側の軍用地をパノラマ撮影(5枚を合成)。広島第一陸軍病院第一分院などが焼失している=1945年8月9日、広島城主任学芸員の玉置和弘氏検証
  • (13)紙屋町交差点南西角から撮影した広島の市街地。交差点中央の奥に広島県庁が見える北側は被爆当時、軍用地だった=広島市中区で2017年2月6日、山田尚弘撮影(4枚を合成、画像の一部を加工しています)
  • (14)茎だけが残る広島城の堀のハス(爆心地から980メートル)=現広島市中区基町で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (14)二つに折れた広島城内のクスノキ(爆心地から980メートル)=現広島市中区基町で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (14)負傷した松村秀逸中国軍管区参謀長。中国軍管区司令部・防空作戦室(現広島市中区基町)前のテント内で撮影したと思われる(爆心地から790メートル)=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (14)広島城の城郭建築は原爆投下で倒壊か焼失。天守閣は1958年に再建された=広島市中区で2017年2月13日、山田尚弘撮影
  • (14)原爆で焼かれた広島城のクスノキ。広島城の城郭建築は原爆投下で倒壊か焼失。天守閣は1958年に再建された=広島市中区で2017年2月13日、山田尚弘撮影
  • (15)爆風で欄干が吹き倒された常葉橋を西から撮影。多くの人々が往来している(爆心地から1550メートル)=広島市の常葉橋西詰め(現広島市中区東白島町)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (15)現在の常葉橋。西から東方向を撮影=広島市南区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (16)爆風で折れた饒津神社境内の松(爆心地から1800メートル)=広島市二葉の里(現広島市東区二葉の里)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (16)饒津神社。原爆の爆風に耐えた松も全て枯れてしまった=広島市東区で2017年2月6日、山田尚弘撮影
  • (17)土塀が割れ、半壊した家屋。二葉山南西側のふもと付近とみられる(爆心地から1600メートル)=広島市二葉の里(現広島市東区二葉の里、丁目は特定できず)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (17)倒壊した家屋(爆心地から1600メートル)=広島市二葉の里(現広島市東区二葉の里)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (17)倒壊した家屋。二葉山ふもとと考えられる(爆心地から1600メートル)=広島市二葉の里(現広島市東区二葉の里)で1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • (17)現在の二葉の里。被爆当時は周辺に軍用地があった=広島市東区で2017年2月6日、山田尚弘撮影(画像の一部を加工しています)
  • つぶれた防空壕。撮影地点は不明だが、右端に見える稜線は比治山。背後の電車通りに人影がたくさん見えることから、紙屋町交差点(現広島市中区紙屋町)付近の可能性がある=1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証
  • 爆風に吹き飛ばされたガラスや砂で顔一面に負傷した少女=詳細な撮影場所は不明1945年8月9日、広島平和記念資料館(原爆資料館)検証

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