メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

それぞれの栄冠

100回目の甲子園へ/6止 監督として審判として あの笑顔胸に、球場へ /石川

2002年の羽咋は、とにかく笑顔の絶えないチームだったという。前から3列目、窓際でピースサインをしているのが浜名冬樹さん。同2列目、帽子を後ろ前にかぶり、両手を広げるのが原佑輔さん=宮崎監督提供

2002年準決 羽咋3-4金沢

 写真には、抜群の笑顔の選手たちが写っている。「本当、底抜けに明るいチームだったんですよ」。2002年全国高校野球選手権石川大会で4強入りを果たした羽咋。昨年から再び同校の指揮を執る宮崎宏正監督(57)は当時を振り返ると、特別な感情が今もわき上がる。公立進学校の躍進を支えたのは、右の浜名冬樹、左の原佑輔(故人)の両3年生投手だった。

     この大会、横手投げの浜名さんは、直前に習得したチェンジアップがさえた。「相手が2テンポくらい待たないと打てない」(浜名さん)という“遅球”は、120キロの直球が速く感じるほど。約180センチと長身の原さんも球速はないが制球力で押していくタイプで、3回戦は浜名さんを救援し、準々決勝は先発して試合を作った。

     初戦の2回戦からすべて1点差で勝ち上がり、金沢との準決勝にたどり着いた。一回に先制したが、先発の浜名さんがその裏、相手の4番に逆転2ランを浴びる。打たれたのは、真ん中に入ったチェンジアップ。「失投でしたね。でも、あれだけ気持ちよく運ばれたのは初めてだった」。浜名さんは緊張から解き放たれ、以降は大崩れしなかった。打線も三回、五回と2度追いつく粘りを見せる。敗れはしたが、強豪と渡り合った実感もあった。

         ◇

    現役時代に思いを巡らす浜名冬樹さん=金沢市で、岩壁峻撮影

     忘れられない夏を迎えるまでには、多くの曲折があった。原さんは00年石川大会で、1年生で唯一ベンチ入りしたが、その秋に慢性骨髄性白血病の診断を受け、長期入院を余儀なくされた。さらに、個性の強かった同学年はみんな自分本位で、ばらばらの状態。浜名さんの代が中心の新チームで臨んだ01年秋の県大会は、1回戦でコールド負けする最悪の出だしだった。

     転機は、原さんが本格復帰した02年春の県大会。「まずは打者1人、その次は1回を投げる」。宮崎監督は段階を踏んだ原さんの起用を考えていたが、2回戦で浜名さんが打球を受けて降板し、原さんに出番が巡った。危機に動じない原さんの救援で勝利。勢いに乗って4強入りし、夏につなげた。「原に助けられ、前に進めた」と浜名さんは話す。

     「原は苦しい顔一つもしなかった」と宮崎監督は言う。治療の副作用で顔がむくんでも、歩くだけで息切れしても、原さんは「復活して、野球しますんで」とぺろりと舌を出し、笑顔で応えてみせた。

     記憶は、永遠のものになる。原さんは近畿大卒業後、入退院を繰り返すようになり、08年7月に24歳で帰らぬ人となった。

         ◇

     今年もまた夏が来て、石川大会のグラウンドには宮崎監督だけでなく、審判員となった浜名さんがいる。明治大卒業後に北国銀行に就職。同僚が審判をしていたことがきっかけで、12年から県野球協会審判部に入った。現在33歳。勤務の傍ら球児を見守る日々だ。「打席での緊張感など、選手の心情の機微を肌で感じられる環境にあるのはうれしい」。宮崎監督も浜名さんの「復帰」を歓迎する。「監督冥利に尽きますよね」

     仲間であり、好敵手。浜名さんの記憶の中にいる原さんは笑顔なのに、思い出すと涙が出る。最近も同級生の結婚式で、野球部の仲間と原さんの話題になったが「2、3分で、2人して泣いてるんですよ」。喪失感を胸に収めながら、未来を生きようと強く思う。

     グラウンドに立つ者、その姿を見守る者。それぞれは100回目の夏の空できっと、つながっている。【岩壁峻】=おわり


    羽咋 101010000=3

    金沢 20010010×=4

    関連記事

    毎日新聞のアカウント

    話題の記事

    アクセスランキング

    毎時01分更新

    1. 国会前 「安倍政権退陣」デモ集会に8500人
    2. フィギュア P・チャンさんら哀悼 デニス・テンさん死亡
    3. 時代の風 豪雨当日の宴会や死刑「実況」 今やるべきはそれか?=中島京子・作家
    4. フィギュア デニス・テンさん殺害される ソチ五輪銅
    5. 第100回全国高校野球 千葉大会 東大会8強決まる 木更津総合、拓大紅陵が圧勝 /千葉

    のマークについて

    毎日新聞社は、東京2020大会のオフィシャルパートナーです

    [PR]