毎日映画コンクールの歴史
毎日映画コンクールの歴史は古く、戦前1935年までさかのぼります。毎日新聞がまだ東京日日新聞と称していたこの年、「全日本映画コンクール」が開催されました。コンクールの開催は、“映画界に旋風のようなセンセーション”を巻き起こし、第1回のこの年、渡辺邦男監督の「うら街の交響楽」を最高賞の「東日コンクール賞」に選び、俳優演技特賞を夏川静江が受賞しました。しかしコンクールはその後間もなく、日本が暗黒の時代に突入する第二次世界大戦で中止されました。
現在の「毎日映画コンクール」が産声を挙げたのは、1946年です。映画は当時、荒廃した国土の復興にあえぐ人々を勇気づける一級の娯楽。その復興を後押ししようと始まりました。
審査員には石川達三、河盛好蔵、志賀直哉ら、そうそうたる面々が並びました。映画がいかに重きを置かれていたか、ここからもうかがえます。
この時は、大手映画会社が推薦した自社映画を上映し、審査員の審査によるコンクール賞と、一般入場者の投票による大衆賞、その他、脚本、演出、演技、撮影、音楽の各賞を選出しました。ちなみにコンクール賞、大衆賞とも、受賞作は「或る夜の殿様」。戦後の開放的で革新的な気分を反映した喜劇が、高い支持を受けたようです。
以後、時代の変化とともに選考方法や賞の区分を変えながら、現在まで続いています。その歴史はカンヌ国際映画祭より古く、国内では「キネマ旬報ベスト・テン」に次ぐ長さです。
ドキュメンタリー、アニメーションの両分野は、時代とともに変容してきました。第4回(49年)に「教育文化映画賞」、第6回(51年)には「ニュース映画賞」を設立。第44回(89年)にはこれら2賞を、「記録文化映画賞」に統合。さらに第60回(2005年)からは「ドキュメンタリー映画賞」と名前を変えて一新しました。
第17回(62年)に設けた「大藤信郎賞」では、いち早くアニメーション映画に目を向けました。第44回に「アニメーション映画賞」が新設されたため、現在の大藤信郎賞は主に芸術的なアニメーションが表彰対象となりました。
毎日映画コンクールはこれからも時代背景に合わせ、映画の今とともに歩んでまいります。