「天才」(幻冬舎)は、田中角栄氏が一人称で生涯を振り返る小説だ=1972年12月撮影
「天才」(幻冬舎)は、田中角栄氏が一人称で生涯を振り返る小説だ=1972年12月撮影

社会・カルチャーベストセラーを歩く

官僚的なるものとの対決 「天才」角栄の魅力を描く

重里徹也 / 文芸評論家、聖徳大教授

 西郷隆盛、乃木希典、田中角栄。戦後を代表する思想家、吉本隆明が日本の近代史を考えるうえで、最も重要な人物として挙げたのが、この3人だった。

 私が「西郷より大久保利通の方が大きな役割を果たしたのではないですか」と尋ねても、「軍人としては乃木より児玉源太郎の方が有能だったでしょう」と話しても、吉本は笑って首を横に振るだけだった。

 私は毎日新聞に勤めていた2000年代の前半、同僚の記者と2人で2週間に1度、東京・本駒込にあった吉本の自宅に通い続けた。それは2年以上続いた。吉本に日本の文学作品を語ってもらい、聞き書きする新聞連載のためだった。今では2冊の新潮文庫になっている。

 私は聞き書きをするかたわら、チャンスとばかりに、自分の思いのおもむくままに、さまざまな質問をさせてもらった。吉本はどんな質問にも、すべて答えた。そんな折に聞いた話だった。

会談のためホテルに入る田中角栄首相(中央)とニクソン大統領(左)。右は大平正芳外相(肩書きはいずれも当時)=1972年8月31日撮影
会談のためホテルに入る田中角栄首相(中央)とニクソン大統領(左)。右は大平正芳外相(肩書きはいずれも当時)=1972年8月31日撮影

西郷、乃木、そして角栄

 西郷、乃木、田中。吉本はこの3人が大事なんだ、極めて重要なんだと強調した。3人はアジア的な思想を体現しているんだ、根拠地を持っているんだという説明だった。

衆議院議員に初当選した当時の石原慎太郎氏。若手議員時代は「反田中」の急先鋒だった=1972年12月11日、中村太郎撮影
衆議院議員に初当選した当時の石原慎太郎氏。若手議員時代は「反田中」の急先鋒だった=1972年12月11日、中村太郎撮影

 私は漠然とだが、3人には共通する魅力が感じられるように思った。3人とも合理主義や知性だけでは、その存在の大きさをとらえられない。底知れなさというか、包み込むような人格的な深さというか、理屈を超えた奥行きを思わせるのだ。それが確かに土着的なものと結びついているようにも見える。

 以来、10年以上たったが、この3人のことは絶えず頭のどこかにある。折に触れ、人に意見を聞いたり、関連の本を読んだりしてきた。

 石原慎太郎の「天才」(幻冬舎)も、そんなふうにして手に取った。田中角栄自身が一人称で生涯を振り返る小説だ。石原作品らしく印象的な光景と、肉感的な描写が楽しめる。活字が大きいこともあって、とても読みやすい。

日本人が抱く、角栄的なるものへの渇望

 だが、ベストセラーの理由はそれだけではないだろう。田中角栄的なるものへの渇望が、日本人をこの本に向かわせているのに違いない。

 若いころの切ない恋の思い出。地べたに近い場所での肉体労働。政治家としてキャリアを積んでいく過程で出会う人々。アメリカの要人や中国の首脳との丁々発止のやり取り。政治家たちとの対立と協調。鮮やかなシーンが続く。

 この本に描かれた田中は人間通だ。苦労が培った鋭い観察力と、情のこもった応対で、相手の心を透視している。人の心情が見えたうえで、対応を決めている。国家の利益とプライドを重んじながらも、いたずらな争いは好まず、相手の立場にも配慮する。卓抜な政策立案能力と実行力も描かれる。

 最も印象的だったのは、官僚的なものとのあつれきだった。官僚を使うのも上手なのだが、やがて、官僚的なるものに復讐(ふくしゅう)される。

 たとえば、観念的な三木武夫。世間に迎合した彼を「バルカン政治家」と断定することで、見えてくるものはたくさんある。「クリーン三木」とは一体、何だったのか。そもそも私など、ロッキード事件の全体像をどれだけ立体的にとらえることができていたか。

 大平正芳にあまり触れていないのは物足りなかった。田中を考えるうえで、盟友の大平の存在は避けられないように思ってきた。現在、大平について考えることは、少なくない実りをもたらすように感じる。

自民党総裁に選出された後、田中角栄首相(当時)を訪れて握手を交わす三木武夫氏=1974年12月4日撮影
自民党総裁に選出された後、田中角栄首相(当時)を訪れて握手を交わす三木武夫氏=1974年12月4日撮影

多角的に考えることが必要な存在

 石原が参考文献として挙げている「角栄のお庭番 朝賀昭」(講談社、現在は「角栄の『遺言』 『田中軍団』最後の秘書 朝賀昭」として講談社+α文庫)の著者、中澤雄大は、この本はフィクションだけに、いくつか事実と異なる部分があることを教えてくれた。中澤は毎日新聞の記者で、田中と同じ新潟県出身だ。田中について随分と詳しい。

 この小説を読んで田中の魅力に触れたら、ぜひ、130冊出ているともいわれる田中関連の本にあたって、この日本近代史の傑物について、多角的に考えることをお勧めしたい。何より、私自身がそうありたいと改めて思った。

    ◇    ◇

 「ベストセラーを歩く」は原則、月1回の連載です。次回は漫画「NARUTO-ナルト-」(岸本斉史、集英社)を取り上げます。単行本で全72巻に及ぶこの作品を重里さんは読破中です。どうぞお楽しみに!

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重里徹也

重里徹也

文芸評論家、聖徳大教授

1957年、大阪市生まれ。大阪外国語大(現・大阪大外国語学部)ロシア語学科卒。82年、毎日新聞に入社。東京本社学芸部長、論説委員などを歴任。2015年春から聖徳大教授。著書に「文学館への旅」(毎日新聞社)、共著に「村上春樹で世界を読む」(祥伝社) などがある。

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