戦国武将の危機管理

井伊直政は関ケ原の戦いでなぜ「抜け駆け」したのか

小和田哲男・静岡大学名誉教授
  • 文字
  • 印刷

 関ケ原の戦いの前哨戦ともいうべき会津上杉攻めのため、徳川家康が豊臣大名を率いて下野の小山(おやま)まで進んだとき、石田三成が挙兵したという第一報が家康のもとに届いた。

 そこで家康は諸将を集め、このまま上杉攻めのため会津に向かうか、もどって三成らと一戦を交えるのかの軍評定を開いた。慶長5(1600)年7月25日の有名な小山評定である。

 家康自身は、石田三成をたたく絶好の機会なので、三成との戦いを考えていたが、それを自分の口からいわず…

この記事は有料記事です。

残り1096文字(全文1314文字)

小和田哲男

静岡大学名誉教授

戦国大名・今川氏のお膝元で、徳川家康の隠居先でもあった静岡市で1944年に生まれる。72年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。専門は日本中世史。戦国時代史研究の第一人者として知られ、歴史番組でおなじみの顔。趣味は「城めぐり」で、公益財団法人「日本城郭協会」の理事長も務める。主な著書に「戦国の群像」(2009年、学研新書)、「黒田官兵衛 智謀の戦国軍師」(13年、平凡社新書)。公式サイト https://office-owada.com