健康に暮らす旅と病の歴史地図

旅人アレキサンダー大王の死因は?

濱田篤郎 / 東京医科大学教授

昔の旅は危険でつらかった

 仕事や観光で出国する日本人が、最近は年間1700万人を超えています。これは国民の7人に1人が毎年、海外へ出ている計算になります。皆さんは海外に出かけることに、どんなイメージをお持ちでしょうか。中には仕事でしぶしぶ行く人もいるでしょうが、滞在先での非日常的な体験に胸を膨らます人がほとんどでしょう。

 しかし、一昔前まで旅は危険でつらいものでした。これはTravelという言葉が、Trouble(心配)やToil(苦労)を語源としていることからも推測のつくところです。旅に出ることは、心配事が多く、苦労の連続でした。特に国境を越え、異国に向かう長距離の旅ともなると、生きて帰ることすら保障されていなかったのです。山賊や海賊、野獣に襲われる危険、広大な砂漠の踏破、そして病気などの苦難がありました。

アレキサンダー大王の客死

 旅先で病気になった有名な旅人がアレキサンダー大王です。彼は紀元前334年にバルカン半島にあるマケドニアを出発し、東方遠征のための壮大な旅に出ます。それから8年後、彼はインドのインダス川流域にまで到達し、ヨーロッパからアジアにまたがる大帝国建設に成功しました。この遠征の後、彼は現在のイラクにあったバビロンに滞在しますが、ここで高熱を発します。やがて意識がなくなり、発熱してから10日後、この英雄は故郷から遠く離れた地で32年の生涯を終えるのです。

ギリシャ・テッサロニキの海岸公園に立つアレキサンダー大王像=2003年2月、川辺章生撮影
ギリシャ・テッサロニキの海岸公園に立つアレキサンダー大王像=2003年2月、川辺章生撮影

 彼の死因を巡ってはさまざまな説が挙がっていますが、最近ではマラリアの中でも重症化しやすく致死率が高い「熱帯熱マラリア」が有力とされています。マラリアは蚊が媒介する病気で、古来、多くの旅人を苦しませてきました。この病気で命を落とす旅人も数多くいたのです。

 現代でもマラリアは熱帯地方を中心に流行しています。治療薬が開発されていますが、治療が遅れると致死率が大変に高くなります。日本からの旅行者の死亡例も毎年のように報告されています。

玄奘三蔵を苦しめた高山病

 西遊記の三蔵法師のモデルになった玄奘(げんじょう)三蔵も、日本ではなじみの深い旅行家です。彼は唐の時代、仏教を学ぶために長安を出発し、インドへと旅立ちました。この時、彼はヒマラヤの標高4000m近くある高峰を越えていると推定されていますが、その途上、高山病にかかったことは間違いないでしょう。彼がインドから帰国した時の記録には、ヒマラヤを越える際に強い頭痛を覚えたことが記載されており、それは高山病の症状だったとみられています。

奈良市の薬師寺にある「大唐西域壁画」は、日本画家の故平山郁夫さんが、中国からインドに至る玄奘三蔵の旅の風景を描いた作品。毎年1月5日に、壁画の前で平和祈願法要が行われる=2011年1月5日、花澤茂人撮影
奈良市の薬師寺にある「大唐西域壁画」は、日本画家の故平山郁夫さんが、中国からインドに至る玄奘三蔵の旅の風景を描いた作品。毎年1月5日に、壁画の前で平和祈願法要が行われる=2011年1月5日、花澤茂人撮影

 高山病とは標高2500m以上の高所でおこる病気で、頭痛や吐き気などに始まり、進行すると意識低下を起こし、最悪の場合は死に至ることもあります。最近は南米のインカ帝国の遺跡を訪れる旅行者が増えていますが、ここも標高2500mを超える場所が多く、滞在中に高山病になる人が少なくありません。急激に高い場所に行くのを避けると共に、最近は薬による高山病の予防もお勧めしています。

トラベルメディスンの誕生

 このように、昔の旅はつらく苦しいものでしたが、それが楽しいものに変化するのは、19世紀以降に交通機関が整備されてからです。特に、第二次世界大戦が終わり、航空機旅行が活発に行われるようになると、世界中を動き回る旅行者の数は年々増加を続けました。それに合わせ、旅先で病気になる人も増加しました。

 例えば、ハリウッド女優のキャサリン・ヘプバーンが、1951年に映画「アフリカの女王」の撮影でアフリカのコンゴに滞在した時のエピソードがあります(注)。この名作映画のロケ中に撮影隊の間で集団食中毒が発生し、撮影の中止を検討するほどの大混乱に陥りました。主演のキャサリンも下痢を起こし、帰国後もしばらく体調を崩していたそうです。

映画「旅情」(1955年)の1シーン。キャサリン・ヘプバーン(左)とロッサノ・ブラッツィ
映画「旅情」(1955年)の1シーン。キャサリン・ヘプバーン(左)とロッサノ・ブラッツィ

 こうした海外旅行中の健康問題を解決するため、70年代ごろから欧米各地に、「トラベルクリニック」と呼ばれる医療機関が数多く登場します。このクリニックでは旅先の医療情報の提供や、予防接種、携帯医薬品の販売、さらには帰国後に症状のある旅行者の診療などが行われます。欧米では国民もその存在をよく知っており、海外旅行に出発する前には、このクリニックで指導を受けることが習慣になっています。

 やがて80年代になると、トラベルクリニックで提供している医療を学問的に研究する動きがおこり、「トラベルメディスン」という旅の病を専門に扱う医学領域が確立しました。

 私はトラベルメディスンという言葉を「渡航医学」と訳しています。トラベルは旅行とも訳せますが、この医学は海外旅行者だけでなく、仕事で海外に滞在する人や移民なども対象とするからです。

日本のトラベルメディスンは?

 日本国内でも2000年代になると、海外旅行者の急増に伴って、都市部を中心にトラベルクリニックが増えてきました。そしてトラベルメディスンを扱う学会も設立されています。

 それでは、日本国内で渡航医学やトラベルクリニックを知っている人がどれだけいるでしょうか。残念ながらその数はまだ多くありません。海外に行くといっても、健康面で注意すべきことは国内とあまり変わらないと思っている人が多いようです。

 現代の旅は交通機関の発達などで楽しいものになりましたが、旅先で遭遇する病気はアレキサンダー大王や玄奘三蔵の時代とあまり変化していません。旅を楽しく安全に過ごすための健康術として、渡航医学をぜひご理解いただきたいと思います。

 この連載では、そんな目的の下、渡航医学をさまざまなエピソードと共にご紹介します。

   ×   ×   ×

注:キャサリン・ヘプバーン著 芝山幹郎訳「『アフリカの女王』とわたし」文芸春秋

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濱田篤郎

濱田篤郎

東京医科大学教授

はまだ・あつお 1981年、東京慈恵会医科大学卒業。84~86年に米国Case Western Reserve大学に留学し、熱帯感染症学と渡航医学を修得する。帰国後、東京慈恵会医科大学・熱帯医学教室講師を経て、2005年9月~10年3月は労働者健康福祉機構・海外勤務健康管理センター所長代理を務めた。10年7月から東京医科大学教授、東京医科大学病院渡航者医療センター部長に就任。海外勤務者や海外旅行者の診療にあたりながら、国や東京都などの感染症対策事業に携わる。11年8月~16年7月には日本渡航医学会理事長を務めた。著書に「旅と病の三千年史」(文春新書)、「世界一病気に狙われている日本人」(講談社+α新書)、「歴史を変えた旅と病」(講談社+α文庫)、「新疫病流行記」(バジリコ)、「海外健康生活Q&A」(経団連出版)など。

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