エイズという病を知っていますか?【17】

 HIVは他人から偏見や差別を受ける疾患ではない、ということを私は言い続けています。これは少し考えれば誰にでも理解できることです。ですが、感染していることを誰にでも堂々とカムアウトしている人は、日本でも海外でもあまりいません。HIVに関する活動をしている人(その場合も本名は伏せていることが多い)か、あるいは芸能人や有名なスポーツ選手などごく一部の著名人に限られます。つまり、ほとんどの人は感染していることをオープンにしておらず、そこに住むHIV陽性者のほぼ全員がカムアウトしている地域が存在するなどとは、にわかには信じられません。

“世界の常識”を覆す場所

 ところが、です。あるのです。 そんな“世界の常識”を覆す場所が。そこに住むHIV陽性者のほぼ全員が感染をカムアウトし、住民全員が彼・彼女らの感染を受け入れて、さらに住民全体で正しい知識の啓発に努め、新たな感染者を生み出さないような努力をしている地域が実際に存在するのです。

 今回はその地域のことを紹介したいと思います。タイ国北部に位置するパヤオ県のプーサーン郡です。タイには県が(バンコクも入れると)合計76あり、各県はいくつかの郡に分かれていて、それぞれの郡が行政単位となります。

 2000年代初頭から、タイの保健省は国全域で郡ごとにHIVの自助グループをつくることを推奨しました。パヤオ県には合計九つの郡があり、プーサーン郡の自助グループは県の九つのうちの一つということになります。メンバーにより「ハック・プーサーン」と名付けられています(「ハック」というのはこの地域の言葉で、タイの標準語でいえば「ラック」、意味は「愛する」です)。

2006年3月におこなわれたハック・プーサンの会議。左手前のワインレッドのシャツを着ているのが筆者=筆者提供
2006年3月におこなわれたハック・プーサンの会議。左手前のワインレッドのシャツを着ているのが筆者=筆者提供

 この動きに合わせて、ハック・プーサーンでは感染者が地域の病院に滞在し、新たに感染した人のカウンセリングや、新たな感染者をグループに加えての自助活動などを始めました。家に引きこもっている感染者には家庭訪問をし、メンバーが生活費を得るために農業や家畜の飼育などを共同でおこない、定期的にメンバーが集まって会議をしていました。

 06年3月、私はこの会議に参加させてもらいました。まず驚いたのは、メンバー全員が明るくて笑顔が絶えないということです。さすが、ほほ笑みの国、と言いたいところですが、タイでも他のエイズ施設にはこのような笑顔はありません。

 議論の内容は、新たに感染がわかって連絡してきた人に対する支援について▽体調が芳しくない人に対するサポートについて▽親をなくした子供(エイズ孤児)の支援について--などです。私が会議に参加して分かったことは、数年前まではこのメンバーたちも他の地域と同様に差別や偏見に苦しみ隠れるように生きていたこと、そして、その状況が劇的に改善していたことです。

 会議が終わったとき、私は何人かのメンバーから個別に話を聞いてみました。これは、ある女性のメンバーが語ってくれた言葉です。

ハクプーサーンのメンバーと。左から2人目の白いシャツが筆者(2015年8月)=筆者提供
ハクプーサーンのメンバーと。左から2人目の白いシャツが筆者(2015年8月)=筆者提供

「以前はとてもつらかったのよ。誰からも罵声を浴びせられて、家から一歩も出られなかったわ。早く死んでしまいたいと思っていたし、何度も自殺を考えた……。けどね、あるときハック・プーサーンのメンバーに誘われて仲間に加わることにしたの。みんな、おんなじ悩みを抱えているから、すぐになじめたわ。これまでの人生で経験したことのない、友情のありがたみを知ることもできた。私を誘ってくれて、やさしくしてくれた仲間たちには本当に感謝しているの」

 彼女は続けました。

「今はね、少しでも多くの人の苦しみをとってあげたいの。あのとき私が苦しんだような思いは、誰にも味わわせたくないの。私が自ら命を絶つことを考えているときに仲間に救われたように、私も苦しんでいる人の力になりたいの。そのためならなんでもするわ。それでね、あるとき気付いたの。私が今やっていることで、仲間に加わって笑顔を取り戻した人もいるけど、それ以上に私が楽しんでいるってことにね……」

9年後の再訪

HIV陽性者を家庭訪問したハック・プーサーンのメンバー。中央に座っている男性はHIV感染により視力を失い、メンバーがケアしている(2016年8月)=筆者提供
HIV陽性者を家庭訪問したハック・プーサーンのメンバー。中央に座っている男性はHIV感染により視力を失い、メンバーがケアしている(2016年8月)=筆者提供

 15年8月、私は9年ぶりにこの地を訪れ、ハック・プーサーンのメンバーから改めて話を聞きました。さらに1年後の16年8月にも活動の様子をうかがうために再訪しました。彼・彼女らから話を聞く度に、エイズ孤児も成人の感染者も、地域社会の住民みんなで支えている、という事実に驚かされます。日本では到底考えられないことです。そこで私は具体的な事柄についていくつか質問をしてみました。

 まず、学校でエイズ孤児がいじめられたり差別を受けたりすることは本当にまったくないのか、と尋ねました。成人では理性が先に働きますが、子供はときに“残酷”だからです。「そんなものは一切ありません」。メンバーのひとりが即答しました。ですが、以前は強烈な差別があったそうです。それがハック・プーサーンの地道な活動や「ラジオ」を使った啓発の成果が出て、現在はまったくなくなっているのです。

 ここでいうラジオとは、ハック・プーサーンが独自につくったミニラジオ局で、少し前までこの地域一帯に流れていました。この地域の産業は農業が中心で、住民の多くはラジオを聞きながら農作業をします。そのラジオでは音楽を流すと同時に地域のさまざまな情報も伝え、そのなかでHIVの話もしていたのです(14年に起こった軍事クーデター後にラジオ局運営が禁止され、現在は休止しています)。

 就職はどうなのでしょうか。数年前、ある感染者がタイで全国展開するスーパーマーケット「テスコ・ロータス」への就職を、HIVを理由に取り消されたことがあったそうです。するとハック・プーサーンのメンバーたちはその地域に乗り込んで抗議活動を開始。その結果、就職取り消しが撤回され、その感染者は今も元気に働いているそうです。また、HIV陽性であることをカムアウトして地域の銀行に就職した人もいます。

ハック・プーサーン「成功」の理由

 私が知る限り、ここまでHIV対策がうまくいっている地域は世界でも他にありません。興味深いのは、同じタイの中でもバンコクやチェンマイでは依然、差別やスティグマ(差別や偏見)が存在することです。またプーサーン郡のあるパヤオ県でも、他の郡ではこれほど自助グループの活動がうまくいっていないということです。この理由としていろいろなことが考えられるでしょうが、私は主な理由が二つあると思っています。

ハック・プーサーンの幹部会議。右手前の白いシャツが筆者(2016年8月)=筆者提供
ハック・プーサーンの幹部会議。右手前の白いシャツが筆者(2016年8月)=筆者提供

 一つは、ハック・プーサーンは医療者ではなく患者主体のグループであるということです。ほとんどの郡には大きな公立病院があります。そのためタイ保健省が全国の各郡で自助グループをつくるよう通達を出したときに、ほぼすべての地域では病院つまり医療者が主体となり感染者をまとめるようなかたちをとりました。プーサーン郡にはそのような大きな病院がなく、住民たちが自らの力でグループをつくるしか道はなかったのです。

 そしてもう一つ、こちらの方が大きな理由だと思いますが、ハック・プーサーンのリーダーおよびリーダーを補助する人たちが非常に魅力的でエネルギッシュであるということです。おそらく彼・彼女らの魅力にひかれ、グループの活動に賛同する人が多かったのではないかと私は感じました。

 ハック・プーサーンを見習えば世界中のどこででも同じような理想の社会が構築できるというわけではないでしょう。しかし、このグループから学べることが非常に多いのは、間違いありません。

筆者が主催しているNPO法人GINAはこの地域のエイズ孤児に奨学金を支給している。写真はその授与式(2016年8月)=筆者提供
筆者が主催しているNPO法人GINAはこの地域のエイズ孤児に奨学金を支給している。写真はその授与式(2016年8月)=筆者提供

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谷口恭

谷口恭

太融寺町谷口医院院長

たにぐち・やすし 1968年三重県上野市(現・伊賀市)生まれ。91年関西学院大学社会学部卒業。4年間の商社勤務を経た後、大阪市立大学医学部入学。研修医を終了後、タイ国のエイズホスピスで医療ボランティアに従事。同ホスピスでボランティア医師として活躍していた欧米の総合診療医(プライマリ・ケア医)に影響を受け、帰国後大阪市立大学医学部総合診療センターに所属。その後現職。大阪市立大学医学部附属病院総合診療センター非常勤講師、主にタイ国のエイズ孤児やエイズ患者を支援するNPO法人GINA(ジーナ)代表も務める。日本プライマリ・ケア連合学会指導医。日本医師会認定産業医。労働衛生コンサルタント。主な書籍に、「今そこにあるタイのエイズ日本のエイズ」(文芸社)、「偏差値40からの医学部再受験」(エール出版社)、「医学部六年間の真実」(エール出版社)など。太融寺町谷口医院ウェブサイト

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