桜を見る会の問題ではっきりしたのは、主義主張以前の当たり前の政治の作法が安倍政治では崩れ去っているということだ。
権力の座にいるならば、その権力行使は抑制的でなければならない。自分の支援者や妻の関係者を優遇するようなことは一番避けなければいけない。しかし、「李下(りか)に冠を正さず」という自制が全くない。官僚機構も含めてまわりが全く止めようとせず、迎合し、忖度(そんたく)し、唯々諾々と従っている。
自民党内で長老が苦言を呈したり、若手が反旗を翻したりすることもない。権力者がどんな不正をしてもとがめられることがないのは国家の危機ではないか。
国民を見下している
安倍晋三首相は桜を見る会のような疑惑だけではなく、憲法を含めた政策課題についても質問にまともに答えようとしない。流行語になった「ご飯論法」のようなごまかし、はぐらかししかしない。国民を見下していると言われてもしかたない。
何があっても支持してくれる熱狂的な支持者のことしか見ていないのではないか。桜を見る会は自民党主催でもなんでもないのに「みなさんのおかげで政権に復帰できた」とあいさつをする。世界には自分の支持者しかいないと思っているのか。
秋葉原で演説してヤジを飛ばされると「あんな人たちに負けるわけにはいかない」という。疑問を持ったり、反論したりする有権者は無視する。放っておけばいずれ諦めるだろうとたかをくくっている。
これまでの首相と決定的に違う
国会でやりとりしていても今までの自民党の首相とは決定的に違うと感じる。もちろん自民党と共産党は立場が違う。私が質問して「その通りです」ということもほとんどないだろう。しかし、これまでの首相はそれなりに受け止めて、答えようという努力が感じられた。人間対人間の心の通い合いがあった。
とりわけ、私が最初に国会で質問した首相だった小渕恵三さんにはそうした印象があった。小泉純一…
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