シンポジウム 「沖縄復帰50年を問い直す」 パネルディスカッション /1

シンポジウム「沖縄復帰50年を問い直す」で行われたパネルディスカッション=東京都千代田区の日本プレスセンターで2022年4月28日、手塚耕一郎撮影
シンポジウム「沖縄復帰50年を問い直す」で行われたパネルディスカッション=東京都千代田区の日本プレスセンターで2022年4月28日、手塚耕一郎撮影

 米軍統治下にあった沖縄が日本に復帰して15日で50年となるのを記念したシンポジウム「沖縄復帰50年を問い直す」(毎日新聞社、琉球新報社、一般社団法人アジア調査会共催、BS―TBS後援)が4月28日、東京都内で開かれた。パネルディスカッションでは、玉城デニー知事が五百旗頭真アジア調査会会長、沖縄持続的発展研究所の真喜屋美樹所長、宮城大蔵上智大教授と議論した。司会は前田浩智・毎日新聞主筆。

返還の前提、基地使用 五百旗頭氏

本土との二項対立拡大 宮城氏

 司会 オーラルヒストリーなどで日米関係者に話を聞いている五百旗頭さんに、沖縄返還とは何だったのか、うかがいたい。

 五百旗頭真氏 返還がなぜ行われたのかを話したい。米国にとって、沖縄は戦争で多くの犠牲を払って獲得したという認識だ。領土的野心は乏しいが、戦争で奪った土地という意味は重い。サンフランシスコ講和会議で、吉田茂首相が米側に認めさせたのは「潜在的主権(施政権は米国にあるが、潜在的な主権は日本にある)」という概念で、それがやっとだった。

 どんな組織も既得権を必死に守る。米軍が沖縄で手にした大きな既得権は基地の完全な自由使用権だ。そこで米国は「ブルースカイ・ポジション(青空になったら)」という言葉を持ちだす。「極東で脅威と緊張がなくなったら返す」という意味だが、朝鮮戦争やベトナム戦争が続く中で脅威がなくなるなど考えられない。つまり「沖縄を返すなんてとんでもない」というのが米軍の考えだった。

 ところが佐藤栄作首相が1965年1月に訪米してジョンソン大統領との首脳会談で正面から「沖縄返還をお願いしたい」と言った。公式に日本のトップが要請したのは決定的だ。米国も日本の首相が公言したことを放っておけなかった。

 その後、明らかになったことだが、当時の米政権が驚いた点は二つあった。一つは正面からの返還要求だが、もう一つは佐藤首相がライシャワー駐日大使に「日本も核武装を考える」と伝えたことだ。米国は世界的な核不拡散を考えており、そこからの離脱を懸念して、佐藤首相の返還要求には配慮を要したのだと私は思う。

 背景として、60年安保闘争が大きかった。内乱前夜のように国会を包囲するデモ隊。日本だけでなく米国も「放っておいたら日本政府は持たない」と思った。しかも10年後にもう一度区切りがあり、それまでに沖縄返還が約束されていなかったら、日米関係は保てるだろうかと。

 そして、米国防総省内でも、軍部に沖縄返還を認めさせる説得が始まった。当時の国防次官補代理だったモートン・ハルペリンは、沖縄を返しても日米協力の中で沖縄での基地使用に実害がなければ米軍にも文句はないはずだと考えた。再導入の含みを残しながら、核兵器を撤去して沖縄は返還された。

 司会 宮城さんは両親が沖縄出身で、NHK沖縄放送局で記者をされていましたね。

 宮城大蔵氏 父は、日本政府の奨学金で復帰前の沖縄からパスポートを持って本土の大学へ進学した。一般の日本人学生とは違う扱いもあり、「祖国」のはずなのに、と嘆いたという。

 小学生のとき親の転勤に伴い東京から沖縄県浦添市へ越した。引っ越す前、東京で「沖縄は毎日泳げていいね」と言われたが、沖縄の同級生はほとんど泳げなかった。学校にプールがないうえに、浦添市の海岸沿いは米軍基地で、市民が泳ぐことなどできなかった。

 当時はよくわからなかったが、住んでいた前田という集落は沖縄戦の激戦地で、住民の戦死率が58・8%にのぼった。軍人ではなく住民の6割が犠牲になる戦闘とは、どういうものかと言葉を失う。

 私がNHK沖縄放送局に赴任したとき、復元された首里城の取材をした。「作り物」という人もいたが、2019年に火災で焼失した際の人々の嘆き方に接して、沖縄・琉球の歴史と文化の象徴が存在することの大切さを痛感した。

 本土対沖縄の二項対立思考が近年ますます広がったように思う。「本土と沖縄」は、「東京の政府と沖縄」以外の関係を作れないだろうか。たとえば、本土にも米軍基地はある。日米地位協定は、全国知事会が国に改善を意見具申しているとおり、全国の基地所在地にとっての問題だ。

B52墜落でコザに衝撃 真喜屋氏

生きるため、米兵と接触 玉城氏

 司会 コザ市(現沖縄市)出身の真喜屋さんは、生活者の視点から復帰をどう見てきましたか。

 真喜屋美樹氏 コザは戦後、極東最大の米軍基地建設に伴い人が集まった。つまり嘉手納基地がなければコザという街もなかった。

 基地で働く労働者が多いだけではなく、米兵相手の店なども多く、独特の雰囲気がある街だった。ベトナム戦争時、米兵は米本土からベトナムに行く途中で沖縄に立ち寄った。ベトナムに行ったら帰ってこられないかもしれないから、給料を全て使ってしまえ、ということでにぎわっていた。コザは米軍に苦しめられながらも、置かれた環境を逆手にとって街の文化を作っていた。その個性が50年を経た今、注目されている。

 1968年に、嘉手納基地でB52爆撃機の墜落事故があった。私の家から車で10分ほどの所だ。爆撃機は大量の爆弾を積んでベトナムに出撃していた。事故現場は弾薬庫の250メートルほど手前だったので、地域住民に「もし弾薬庫に引火していたら」と非常に大きな衝撃を与えた。沖縄に住む人たちは最悪の状況を常に考えており、基地と隣り合わせの暮らしは、今も変わらない。

 司会 玉城知事は、父は米兵、母は伊江島出身ということで、興味深い経歴をお持ちです。玉城デニー個人としてお話を。

 玉城デニー氏 父と母が知り合ったのは58年で、私は翌年に生まれた。…

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