2015年12月04日

日本とトルコ 125年の友情

1890年の遭難から1985年のテヘラン

ふたつの救出劇 つないだ絆

 1890年のオスマン帝国(トルコ)軍艦・エルトゥールル号の遭難事故から今年で125年。500人超とされる乗組員らが犠牲となったが、和歌山・串本の紀伊大島の住民らの献身的な救助で、69人が生きて古里に戻ることができ、後に日本とトルコの友情の起点と認識されるようになった。東西隔てた日本とトルコは、どんな関係を築いていったのだろうか。12月5日に日本・トルコ合作映画「海難1890」が全国公開となり、両国の関係が改めてクローズアップされる中、毎日新聞の過去の報道などを基に史実を振り返った。【最上聡】

2015年6月3日、和歌山県串本町で行われた追悼式典で夫人とともに献花するアフメット・ビュレント・メリチ駐日トルコ大使=藤原弘撮影
2015年6月3日、和歌山県串本町で行われた追悼式典で夫人とともに献花するアフメット・ビュレント・メリチ駐日トルコ大使=藤原弘撮影
1985年 イラン・イラク戦争

テヘランに取り残された日本人
無差別攻撃が迫る中、トルコ航空が救助

日本人の緊急脱出を伝える1985年3月20日の毎日新聞1面
日本人の緊急脱出を伝える1985年3月20日の毎日新聞1面
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「トルコ機でやっと脱出」=1985年3月20日の毎日新聞社会面
「トルコ機でやっと脱出」=1985年3月20日の毎日新聞社会面
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 1985年3月12日の毎日新聞夕刊は「テヘラン爆撃 イラク軍報復 市民5人が死亡 日本人の大多数が住む地区」と伝える。「2軒隣の中庭に爆弾が落ちた」と話す縣正樹さん(62)の住んでいた家は、窓ガラスが割れたり壁が崩れたりし、住める状態ではなくなった。83年からイランの首都テヘランの日本人学校に赴任していた縣さん。妻や子供と地下に避難した際、ずっと大人の悲鳴やうめき声が聞こえていたという。「亡くなった人の声だったかもしれない」と振り返る。周囲のイラン人ともども事態を楽観していたが、対空砲火のごう音などにおびえ泣き叫ぶ子供らを見て「頭上に爆弾が落ちてくるかもしれない」と初めて恐怖を覚えた。

 80年、イラン・イラク戦争が勃発した。石油輸出のルートが絡む国境線、河川航行権を巡る争いが発端とされる。79年、ホメイニ師を指導者とする革命で親米のパーレビ朝が倒れ、イラン・イスラム共和国が成立。イラクのサダム・フセイン大統領(当時)は、軍制などの混乱の隙(すき)を付く形で攻撃を開始した。シーア派、スンニ派というイスラム教内の宗派対立も背景に、石油利権やイラン革命に対する欧米各国、周辺諸国の思惑が絡み、複雑な経過をたどった。たびたび攻防は逆転し、戦闘は拡大と沈静を繰り返した。戦争初期にテヘランの空港が攻撃を受けたりはしたが、基本的には国境付近の争いだった。

 しかし85年3月、互いの都市を無差別攻撃し合う事態にまでなる。航空機による空爆などが行われた。米国の支援などで軍備で優位なイラクが、こう着状態の打破を図って報復合戦のエスカレーションを狙ったのが背景の一つとみられる。自動車会社に勤務していた沼田凖一さん(73)は同年2月、現地工場の生産性向上のため、4人の技術者を連れイランに出張したばかりだった。「情報を集めた結果、テヘランが危険な事態には発展しないと思われた。危機感はなかった」と振り返る。テヘラン空爆で事態は急変することになった。

 イランは日本にとってサウジアラビアやアラブ首長国連邦に次ぐ原油輸入先で、商社マンや技術者らをはじめ、約500人がテヘランに滞在していた。イラク軍のテヘランへの攻撃は続き、さらに大規模な攻撃が行われるとの情報も飛び交い、在留外国人の脱出が続いた。3月18日朝刊は、西ドイツ(当時)のルフトハンザ航空とオーストリア航空の特別機で、十数組の日本人家族が脱出したことを報じつつ、現地日本人会が同16日、事態の変化に備え大使館に日本航空の特別機の派遣を要請するよう申し入れたと伝える。

 そんな中の同17日、イラク政府のスポークスマンは19日午後8時(日本時間20日午前2時)以降、イラン領空全域を戦闘地域とし、すべて民間航空機が攻撃を受ける可能性があるとの警告を出す。20日以降、国際便が飛ぶ望みはほとんどなくなった。テヘラン・メヘラバード国際空港に乗り入れる各国航空会社は、自国民の搭乗を優先した。出国を希望する日本人の多くが空港に殺到するも、取り残されかねない事態となった。

 政府はイラン・イラク両国から、飛行の安全が保障されることが特別機派遣の前提とし、両国と折衝した。しかしイラク側から明確な返事は得られなかった。結局、特別機は派遣されなかった。いきさつを20日朝刊は「日航は18日昼過ぎからジャンボ機を待機させたものの外務省は『何人の在留邦人が救援機を必要とするのかわからなかった』と決断せず——」と伝える。

1985年3月19日、参議院予算委員会でイラン・イラク戦争について報告する安倍晋太郎外相
1985年3月19日、参議院予算委員会でイラン・イラク戦争について報告する安倍晋太郎外相

 「日本からの救援機が来ないと聞いたとき、当時は背景も分からず、ただ悲しい気持ちになった」と沼田さんは振り返る。車での脱出も検討したが、国境を越えるための書類が必要で準備ができなかった。「国境付近で山賊に襲われるといううわさもあった」。毎日、チケットを求め航空会社の窓口に通ったが、イラクの警告以降の混乱の中では入手できない。「4人は何事もなく日本に返さないと」と思い詰めた。そんな同19日未明、大使館から「トルコ航空が来てくれる」という話を受けた。

 20日朝刊は「大使館の努力で、トルコ航空が日本人乗客を優先的に乗せることで話しがついた」と報じる。大使館員が各国大使館や航空会社と折衝する中、トルコが応えて本国に救援機の増派を要請してくれた。一方、当時トルコ駐在の商社マンで、日本・トルコ協会理事を務めた故・森永堯さんの著書「トルコ 世界一の親日国」によると、森永さんらが旧知のトルグト・オザル首相(当時)に「航空機を在留邦人を救うために派遣してください」と依頼。オザル首相は「親友の森永さん、心配するな」と答え、派遣を決定したという。

 「信じられなかった。なぜこんな状況で来てくれるのか、理由が分からなかった」。沼田さんは飛行機に乗り、国境を越えた瞬間、緊張と恐怖が解き放たれ、涙が止まらなかった。イラクの警告期限の約3時間前に離陸した1番機に日本人198人、期限1時間前の2番機に17人が搭乗した。2番機に乗れた縣さんは壊れた自宅からの避難先で、心労もあって体調を崩した中で空港に向かっていた。初め、ソ連(当時)のアエロフロートに乗れる予定で空港に入る長い行列を待った。しかし、乗れなかった。「道は閉ざされた。戻ろう。知り合いのイラン人も逃げていないのだから」。踏ん切りを付けようとしたところで、2番機への搭乗を呼びかけられた。

なぜトルコ機が?…その答えは…

 21日朝刊は安倍晋太郎外相(当時)がトルコ外相に「トルコ政府の配慮に感謝する」とのお礼のメッセージを送ったと報じる。近年の首脳往来などを挙げ、日本側が「友好関係の成果」と評価したとしている。

 縣さんは「いくら親日的とはいえ、ここまでしてくれるとは」という疑問を解き明かそうと、帰国してから図書館で調べ、エルトゥールル号の遭難事故のことを知った。「これだったのか」と自身の中で合点がいったという。地元・串本では、節目に慰霊祭を営むなど受け継がれてきた記憶だが、日本国内において、エ号の出来事は99年のトルコ北西部地震の救援や、2002年のサッカー・ワールドカップ(W杯)での対戦などを経て、トルコへの注目が集まる中でインターネットなどで広まり、マスメディアも取り上げるようになった。沼田さんはテレビ番組でエ号のことを知り、トルコ大使館にお礼に出向くなど活動を始めた。10年にイスタンブールを訪問し、当時の機長や乗務員と面会する機会があった。お礼に対する女性乗務員の「日本人を助けるため、テヘランに行けるのを誇りに思った」との言葉に涙した。

1890年 エルトゥールル号遭難

串本の住民が乗組員を救助、手当て
69人が祖国に生還、いまも続く犠牲者追悼

エルトゥールル号
エルトゥールル号
軍艦「エルトゥールル号」沈没を報じる1890年9月19日の東京日日新聞の号外
軍艦「エルトゥールル号」沈没を報じる1890年9月19日の東京日日新聞の号外

 オスマン帝国は13世紀末、アナトリア半島北西部に現れたトルコ系部族集団を起源とするとされる。1453年、東ローマ帝国の首都・コンスタンティノープル(イスタンブール)を攻め落とし、16世紀の最盛期には現在の東欧から中央アジア、北アフリカにまで勢力が及び、古代ローマや東ローマの最盛期に匹敵する、地中海世界に覇を唱えた大帝国となった。宗教や言語の異なる、さまざまな文化背景を持つ人々を抱えた。しかし17世紀末の第2次ウィーン包囲の失敗に象徴されるように、自身の軍事・民政の制度疲労も手伝って、産業革命などで国力を付ける欧州世界に対して劣勢となる。1789年のフランス革命を経て決定的となる「民族自決」の流れは、19世紀に入るとギリシャなど次々と勢力下の地域の独立を招き、オスマン帝国を「瀕死(ひんし)の病人」へと追いやった。自身が優勢だった時代の制度を逆用されて不平等条約を結ばされ、経済的にも欧州列強の半植民地化が進んだ。特に不凍港を求めるロシアから直接の南下圧力を受ける中、オスマン帝国は1876年のミドハト憲法の発布など、欧州に倣った近代化改革を進めようとしたが、必ずしも成功しなかった。

 89年のエ号の日本への派遣は、87年の小松宮彰仁親王が皇帝(スルタン)アブドゥルハミト2世に面会、明治天皇の親書を手渡したことへの返礼の意味合いで、友好親善が目的だった。エ号は破損事故などに見舞われ、日本到着後には乗組員がコレラに感染するなど困難を極めたがアラビア半島、インド、東南アジアなどイスラム教徒が数多く住む各地に寄港しながらの長旅は、列強の脅威にさらされる中、「イスラムの盟主」としての威を示す目的もあったとされる。

日本・トルコ関連年表
1863年エルトゥールル号建造
1867年大政奉還
1887年小松宮彰仁親王、皇帝(スルタン)アブデュルハミト2世と会見。明治天皇の親書を送る
1889年エ号、イスタンブール出港
1890年6月、エ号横浜着。使節代表、明治天皇と会見。皇帝の親書を送る
9月15日、エ号横浜出港。
16日、串本町樫野沖の岩礁に衝突沈没。島民らが救助活動
1923年トルコ共和国成立
1924年日本・トルコ国交樹立
1980年イラン・イラク戦争勃発
1985年トルコ航空機のイラン在住邦人救出
救助された乗組員らへの義援金をよびかける1890年9月25日の東京日日新聞
救助された乗組員らへの義援金をよびかける1890年9月25日の東京日日新聞
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 明治天皇と無事に会見して目的を果たした帰途、エ号は台風に巻き込まれ岩場に座礁、大破した。生存者は近くの灯台にたどり着き、職員に事故を通報。嵐の夜の中、救助活動が始まる。灯台守や地元村長が残した記録だけでも、血まみれの船員を手当てし、私物の衣服や食料を分け与え、住民参加で捜索をした様子がうかがえる。後にオスマン帝国から寄せられた謝礼について、救助に関わった医師が「遺族にあげてほしい」としたためた手紙も残るなど、見返りを求めない善意も見える。

2015年6月4日、エルトゥールル号遭難慰霊碑の前で黙とうをする人たち=和歌山県串本町で藤原弘撮影
2015年6月4日、エルトゥールル号遭難慰霊碑の前で黙とうをする人たち=和歌山県串本町で藤原弘撮影

 エ号の訪日について、新聞各紙はそれほど大きく報じていなかったが、遭難事故には多大な関心が寄せられた。毎日新聞の前身、東京日日新聞は事故から3日後の90年9月19日、号外を発行。「土耳古(トルコ)軍艦の沈没」との見出しで、乗組員が多数死亡し、生存者六十余名も大半が負傷したと伝え、「惨状目も当てられず」と記す。翌20日発行の紙面では、1ページの大半を割いて詳報を伝えつつ、いち早く「同情相愍(あわれ)む」とする社説を掲載し、ようやく帰途に就けた乗組員へのあわれみを述べ、「アジア諸国の連帯」などを訴えつつ、義援金を呼びかけるなどした。日本の台風シーズンにおけるエ号の強行帰国の背景には、「イスラムの盟主」として弱みを見せられないという帝国の思惑もあったとされる。

 地元・串本では事故翌年に追悼碑が建立された。追悼歌が作られたりし、節目に慰霊祭を営んできた。日本とトルコの正式な国交樹立は第一次世界大戦後、オスマン帝国が解体し、アナトリア半島にトルコ共和国が成立してからの1924年となる。いわば「草の根の交流」が、国交に先んじた形だった。戦後、日本が経済発展を遂げる中、日本の資金技術援助でアジア・欧州をまたがるボスポラス海峡の橋や地下鉄が建設されるなど、イスタンブールのインフラ整備が進められた。今年6月にはトルコ大使館、和歌山県串本町共催で日本、トルコの友好を記念するエ号の125周年追悼式典が串本町文化センターで開かれ、犠牲者を悼んだ。

遭難現場近く、ピラミッドや獅子頭のような岩礁が並ぶ和歌山県串本町の海金剛=藤原弘撮影
遭難現場近く、ピラミッドや獅子頭のような岩礁が並ぶ和歌山県串本町の海金剛=藤原弘撮影

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