平和をたずねて

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平和をたずねて:集団引き揚げ 舞鶴港の残影/7止 重箱に詰まるせつなさ=広岩近広

 重箱は料理を盛る箱形の容器で、江戸時代には庶民の間で大いに普及したという。正月や祭りのごちそうを想起させる重箱には、華やかで明るいイメージがある。

 ところが、戦中と戦後の食糧難の時代を過ごした佐藤芳野さん(85)は、重箱には切なくて悲しい思い出が重なるという。舞鶴市内の自宅で色あせた写真を見せてもらった。そこには、ふろしきに包んだ重箱で顔を覆うようにして、涙にむせぶ女性が写っていた。GHQ(連合国軍総司令部)に勤務していた知人の男性がライカで撮った集団引き揚げのひとこまだった。

 「きっと帰ってくる、帰ってきたら、おなかいっぱい食べてもらおう、そう思って懸命に料理をつくり、お重箱に詰めて舞鶴港に来たと思うのです。でも、引き揚げ者のなかに、待ち人はいなかった……」

 佐藤さんはあらためて重箱に言及した。「兄が福知山の部隊にいたので、小豆など珍しいものが配給されると家族は食べずに残しておくのです。餅米と甘味料を工面して、あん餅をつくり他の食べ物と一緒に、お重箱にせっせと詰めて日曜日に面会に行くとき持参しました。お重箱を満たすのが大変な時代でした」

 私は写真で見る「重箱の女性」に感情を揺さぶられた。彼女の心中たるや察して余りある。一方、飽食の現代にあって、重箱を満たす苦心は想像を超える。私は佐藤さんの体験談にじっと耳を傾けた。

 「勤めていた銀行の仕事が忙しくて買い出しに行けないときは、台所に野菜の葉っぱの一片もない、そんな状態が1週間も続きました。ある日、姉が謝りながら、今日はこれしかないと言って、岩塩をお湯に溶かした塩水を夕食代わりに飲んだことを思い出します」

 太平洋戦争時には米の配給量が減り、豆粕(まめかす)や芋づるが米の代用として配られた。「当時の笑い話よ」と言って、佐藤さんは続けた。「おちゃめな人が、黒豆入りのおかゆを食べたよ、と話すのです。実は、ほとんど水ばかりで、おかゆに自分の目玉が映り、それが黒豆のようなので、黒豆のおかゆと言ったのです。笑っていましたが、本当の黒豆でしたら、どんなにうれしかっただろうね」

 さらに佐藤さんは語る。「友だちに農家の子がいて、何もないので助けてとお願いしたら、大根を3本も持ってきてくれて。あのときの裕福な気持ちは忘れられません」

 そんな戦争が終わっても、食糧事情は好転しなかった。佐藤さんは空腹と闘いながら、引き揚げ事務をサポートし続けた。引き揚げ者の苦労を前にすると、どんなことにも耐えられると自分に我慢を強いた。

 佐藤さんは「重箱の女性」と麻袋に身を包んで帰国した「ドンゴロスの女性」に思いを馳(は)せると、今も涙を禁じ得ないという。

 引き揚げ港・舞鶴には消せない記憶が積もっている。一つひとつの記憶が、戦争の犠牲者は誰であるかを教えてくれる。(この項おわり)

毎日新聞 2009年8月11日 大阪朝刊

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