山寺として名高い山形市の立石寺は、江戸時代に松尾芭蕉が訪れている。奥の細道の名句〈閑(しず)かさや岩にしみ入る蝉(せみ)の声〉の舞台である。
蝉時雨の降る8月9日、東京都調布市の内科医、池田精孝さん(85)は立石寺の山門をくぐった。「この日を選んで来たのは、ソ連軍が満州に侵攻した日だからです」
池田さんは東京から3体の花嫁人形を持参していた。人形作りが専門の女性が好意で作ってくれた。池田さんは和紙の花嫁人形を手にして語るのだった。
「不慮の死により結婚できなかった男性に、せめてあの世で幸せになってほしいと花嫁人形を奉納する風習が山形にあるのです。10代で死んだ義勇隊開拓団の少年たちの供養にと、この人形を持って来ました」
池田さんの言う「義勇隊開拓団」は満蒙(まんもう)開拓青少年義勇軍のことで、国策として1938(昭和13)年1月に募集が始まった。大規模経営の農業者を育成する目的を掲げながら、武装移民を若者にまで拡大したといわれる。数え年で15歳から19歳の約8万6500人が満州に渡った。地元民に警戒されないよう満州では「義勇隊開拓団」を名乗り「訓練生」で通す。敗戦前の「根こそぎ動員」などにより、約2万4000人もの犠牲者を出している。
「軍服を着てなくても、38式の銃を持たされた集団のなかに銃身より背丈の低い子がいたそうです。そんな子がソ連軍と戦って死んでいる。かわいそうですよ」
池田さんによると、終戦の2日前に軍都・佳木斯(チャムス)で結成された松花部隊にも、青少年義勇軍の訓練生が含まれていた。
「彼らはソ連軍との戦闘で、松花江の対岸にかかる鉄橋を守り抜いてくれ、だから佳木斯にいた3万人の避難民の命は救われた。でも10代の少年が犠牲になりました。詳しい人数はわかりませんが、この花嫁人形を彼らに届けたいのです」
池田さんが立石寺の花嫁人形の由来を知ったのは、青少年義勇軍の寮母をしていた徳田マサさんの手記を読んだときだった。彼女は39(昭和14)年に、48人の寮母とともに満州に渡る。28歳だった。
ソ連軍が侵攻してきたときには、3カ月前に新潟からやってきた訓練生ら約170人の世話をしていた。この日から帰国するまでの1年間に、徳田さんは多くの訓練生をみとった。〈十四か十五の少年ですが、私の手で抱き上げられる程、〓(や)せ細っていました〉。手記にそうある。
徳田マサさんは71年10月、立石寺に36体の花嫁人形を奉納した。以来、こつこつ作って10年間で143体になった。
徳田さんが宮城県仙台市で亡くなって15年になる。
霧雨が蝉の声に混じって落ち始めた。池田さんは山道を下りながら足を止めた。「なぜ、あんなに大勢の死亡診断書を書かねばならなかったのか……」
その声は、岩にしみ入るようであった。(この項おわり)
毎日新聞 2009年11月10日 大阪朝刊