小さな愛を持ち続ける

「現実の社会における恐怖というのは、幽霊なんかよりもはるかに怖い」

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 キャップをかぶった貴志祐介さんがゆったりとした足取りでエントランスに現れた。待ち合わせ場所は阪神甲子園球場にほど近いホテル。自宅から歩いて来たのだという。「このあたりは北に山があって、南に海がある。私みたいな方向音痴でも困らないんですよ」と語る。関西で生まれ育った貴志さんが関西を離れたのは、保険会社のサラリーマン時代のうち6年だけだそうだ。

 貴志さんが描く怖さは、底知れないものがあるとも言われます。つまらない質問だとは思いますが、ご自身で作品を書いていて怖くなったりはしませんか?

 「よく聞かれますね。ホラー作家は両極端に分かれるんだと思います。スティーブン・キングのように書いているうちに怖くなって、怖くて怖くて家中にカギをかけて回るような人と、まったく怖さを感じない人間とにね。私は怖いと思ったことはありません。どこか俯瞰(ふかん)して書いているんです。のめり込んで夢中になると、作品のバランスがきっと崩れてしまいますから」

 「ホラーはどちらかというと苦手だったんです。自分で書こうとも思いませんでした。論理性もなく、何ら理屈が伴わないものだと思っていたので。ところがモダンホラーはしっかりした論理性を備え、ミステリーの要素を重視して謎解きを含んでいる。モダンホラーは怖くなくてもいい、小説としての面白さが大事なんです」

 とはいえ、貴志さんが描く怖さは人間心理の深いところに根ざし、心を震えさすような恐ろしさがあります。

 「怖さにはいろいろあるけれど、現代はモノとしての怖さはそうでもないですね。自分が死ぬことよりも愛する者を失うとか奪われるとか、あるいは自分が自分ではないものに変わっていくとか。仕事を通じてだんだん変わっていってしまう自分とか。その方が深くて重い。自分の認識を根底から揺さぶられてしまう、そんな怖さですね」

 かつて保険会社に勤めていたころに、そうした怖い経験をしたそうですね。

 「スケール感の大きな恐怖を感じました。たとえば、わずかな額、ほんの数万円の保険金を得るために自らの体を傷つけるような人がいるんです。自分にそんなことをできる人間は、他人にはもっとひどいことをできるでしょうね、きっと。そう思うと、底知れない怖さを感じました。人間が一番怖い、ということでしょうか」

 「しかし、もっと怖いのは貧困ですよ。そういう自らの体を傷つける人の背景にあるのは、経済的な貧しさです。人を闇に追い込むのも、犯罪に走らせるのも。現実の社会における恐怖というのは、社会状況が必ず影響してくるし、幽霊なんかよりもはるかに怖いですね」

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