これは書けないとあきらめかけた時もあった

怪談の好きな子どもだった

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 自宅に8ミリカメラがあったせいか、小さいころから映像を撮っては楽しんでいたという高野さん。といっても、子どもらしく自然や身辺を題材にしたわけではなく、ストーリーのあるドラマを撮っていた。早くも中学生のときには自主映画作りに精を出す少年だった。そんな物語好き、映像好き、ドラマ制作好きの原点は、幼児期に母親から読み聞かされていたお化けや幽霊のお話だという。幼稚園のころにはすでに短い“ものがたり”を創作したというから、ストーリーテラーとしての才能は5歳から芽生えていたのかもしれない。

 ものを書くのが好きになった一番のきっかけは、何でしょうか。

「やはり、振り返ると、親の影響が一番大きかったんでしょうね。これはどなたも同じだと思いますけど、精神形成という点では両親とか家庭の影響が一番大きいでしょうね。書く仕事という点では、母の影響が強かったと思います。私が幼稚園児のころに、母がよく怪談を読み聞かせてくれて、すっかりフィクションの面白さにのめり込みました」

 どういう経緯で、そうなったのですか。普通の母親でしたら、童話や絵本でしょう。

「三つ上の兄と私、2人の息子を本好きにしようと思って読み聞かせを始めたらしいです。ところが、兄は音楽のほうが好きになって、あまり本を読まずに結局失敗。そこで母は、ありきたりな昔話なんかじゃなく、お化けならどうかと考えたらしいです。それで、いろいろな怪談を読んでくれました。だから、他の子どもが知っているような『花咲かじいさん』などの童話や昔話は知らない子供でした。そのかわり、『番町皿屋敷』は知っていて、お菊さんが『一枚、二枚…』と数えるクライマックスなど何とも言えないくらい面白いと感じる子供でした。小学生のころは『世界の怪奇スリラー全集』を読んで楽しんでいました」

 そして、小説も書いた?

「いやあ、小説というのはおこがましいですね。5歳のころ、小話を思いついてノートに書いたのが始まりです。王様の家来がピストルで撃たれるんですが、刑事が調べたらピストルがおもちゃだったと分かり、王様が喜ぶ、というストーリーでした。そういう話を思いついてはノートに書いていきました。これも、親が面白がって読んでくれていたのが大きかったですね」

 では、小、中学生のころは、作文などは得意だったんでしょうね。

「いや、特に得意というわけではなかったです。強制されて書かされるのは面白くないし、やる気も出ないです」

 少年時代、多くのハリウッド映画、特にスピルバーグの映画に心を躍らされた経験が、次第に映像作家、映画監督への夢を膨らませたわけですね。

「小学生のころから自主製作映画を撮り始めていて、脚本もいろいろ書いていました。それで高校二年生から大学浪人中にかけて書いた映画脚本が、城戸賞の最終候補に残ったんです。父は私を医者にしたがっていて、私も一応理系を勉強していたんですが、この脚本がプロの映像業界から正式に映像化のオファーをもらうことになって、父親も折れてくれました。その後、映画監督の岡本喜八さんの下で働き、さらにハリウッドで学ぼうと、ロサンゼルス・シティー・カレッジの映画科に入り、現地の撮影現場で多くを学びました」

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