ハブ空港のように、放射状に八方全方位に広がっていくのがいい

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 確かに山登りは末広がりに、いろいろと楽しみが広がっていくようですね。

 「下山すると、そのふもとの町を歩いたり、温泉に入ったり、史跡を巡ったり、団子やまんじゅうくらいでしたが、グルメも楽しめる。登山という一つの趣味から、写真、俳句、和歌、エッセー……いろいろなものが派生してきた。山は未知数が多くて、拡大再生産的でしょう。知り合いの中には、山登りから神社巡りや路地裏研究に興味を持った人もいます。ハブ空港のように、放射状に八方全方位に多面的な趣味が広がっていくのがいい。僕にとっても山登りはとてもいい趣味、たしなみです。同じ趣味でも、女性あさりやギャンブル、あるいはデラックスツアーなどでは、こうも多くのものが派生してこないでしょう。山登りは楽しい副産物があり、いい趣味だと思います」

 森村さんの人生にとって、山登りはいろいろな人との出会いを含めて、多くの副産物をもたらしてくれたわけですね。

 「山が好きな人に悪人はいないと、当時は言われていましたね。友達ができるという付加価値も、他の趣味より多いかもしれません。こんなことがありました。僕の小説にも書いたけど、穂高を登っている時、前を行くきれいな女性がスリップして滑落したんです。ピッケルを持っていなかったんですね。僕が滑落を停めました。それで命の恩人にされて、北アルプスでデートしましょうということになって、その後3回か4回、同じ日に登りました」

 それで、いい関係に?

 「山の出会いはあまり発展しません。同志みたいな関係で。それに、山で出会った男と女は結ばれない方がいい、結婚してもたいてい離婚する、というジンクスも当時ありまして。確かに、生死の危険を共有し感動を共にした男女はたいてい破綻するというのはわかるような気がします。結婚して夫婦生活を続けていると感動の連続というわけにもいかないから、いつか幻滅してしまうのでしょう。僕が結婚するときに、その女性はアルバムを送ってくれました」

 かなりの山を踏破されたと思いますが、危険な目に遭ったことはないですか。

 「何回かありましたけど、僕の登山はほとんどが夏山で、天気予報に忠実に従うので、命の危険というほどでは。ただ、単独行で北アルプスの白馬から針ノ木岳へと向かった時、膝頭が壊れて、下りにえらい苦労したことがありました。でも恐怖感はなかったですね。夏は登山道に人がゾロゾロ通っていますからね。
でも冬山は怖い。風雪が体熱を奪って行ってしまいますからね。真冬の登山は、お正月に登ったくらいで、僕はしません。山の顔、山相が夏と全然違うので、僕はあまり楽しめないです。夏山が幼稚園児とすれば、冬山は社会人か大人。とくにシルバーエージが夏山を登ったから次は冬山を、というのは危険です。小・中・高・大・社会人……と段階を踏んでから冬山に行くべきです。それでも遭難する人がいますから、冬山には十分に気を付けて」

 それでも趣味、嗜好の効用は人生において十分に意味があると。

 「東日本大震災の被災地に、私は2・5回行っているんですが、震災直後の現場は、生活が生存になっていた。どうにか生存を確保するためには、三つのニーズがある。まず水。次いで生きるための可食物。食品に限らず食べられるものですね。それに医薬品です。だからそんな時に、小説や囲碁・将棋を持って行っても、そんなニーズは現地にはない。だけど、次第に生存から生活にアップグレードしてくると、そこに趣味やたしなみの出番がやって来る。
私がびっくりしたことがあります。まだ生活でなく生存状態にあるのに、被災現場の女性たちが化粧水が欲しいと。美しくありたい、たしなみを忘れないという姿に、驚きました。それにまだ震災後1カ月もたっていない時に、現地で句会が開かれ、結構参加者が多くいたと聞いて、趣味のある人、遊びのある人、人生に余裕のある人は立ち直りも早いなと感じ入りました」

 森村さんはいつごろ被災地に?

 「7〜8カ月後でしたか。石巻から陸前高田を通り、南三陸町、宮古の北まで行きました。まだ生存と生活の境界線にある状態が、よく見えるときでした。現地を見て、昔の光景を思い出しました。郷里、熊谷市が昭和20年8月15日未明、日本最後の空襲を受けまして、僕の家も市街地一帯も焼失しました。そのときの光景が浮かびました」

 森村さんのブログに、被災地の写真と、その光景を詠んだ俳句、エッセーが載っていますね。

 「現地に行くと、写真を撮って俳句を詠む。詠みたくなるんです。人によっては、被災地を句材にするのは不謹慎だという人もいますが、文芸、創作表現の一種の宿命と言えるでしょう。ハッピーな素材よりも、不幸で残酷な方が秀作が生まれる。バチカンの礼拝堂でも虐殺の絵画に名作が多いでしょう。創作活動にはそうした宿命がある。

 それに、現地の人たちと話していると『遠慮しないで東北に花見に来てくれ、どんちゃん騒ぎして復興の後押しをしてくれ、自粛をしないでくれ』と言われます」

 「写真俳句」という名称で、すでに本も出ていますが、いつごろから始められたのですか。

 「もう10年ほど前からでしょうか。すでに3000句は詠んでいるかなあ。始めはブログに俳句だけを載せたんです。そうしたら、アクセスゼロ! その時に、松尾芭蕉の『奥の細道』が不朽の名作になったのはなぜかと考えた。そうだ、俳句と文章が一体だからだと気づきました。その次に目を付けたのが、与謝蕪村。蕪村は俳画の名手だったと知り、脳裏にひらめきました。絵を、いや写真を付けようと。そうして、俳句と文章(エッセー)と写真を一緒にして始めました。

 これは僕の独創ではなく、すでにやってらした方がいましたが、名前を当初の『写文俳句』から『写真俳句』にしたとき、当時の出版社が登録商標を取ったんです。その後、そこが倒産した時、僕が権利を譲られた。でも僕は、誰に対しても、どうぞ無料で使ってくださいと言っています」

 写真俳句は、正岡子規、高浜虚子らが唱えた「写生俳句」とは違うんですか。

 「違います。写生イコール現実のコピー、ではなくて、僕のは想像です。現実の風景とは異なるものを創作したい。以前は散歩していて、この風景は俳句になるなと予感したら、文字で描写したりメモを取っておき、自宅に帰ってから俳句を作った。ところが、それだけでは情報量が少なくて、ディテールを忘れてしまうことがよくありました。そこで、では写真で現場の風景を撮っておこうと。つまり、カメラは作句のための取材道具なんです」

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