「人生、7割の満足でいい」

給料ではいい思いをしませんでしたね

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 日本推理作家協会理事長や日本ペンクラブ会長など要職を務めた阿刀田高さん(80)は、昔から今に至るまで、400字詰め原稿用紙に鉛筆で文章を書き続けているという。電子書籍が出回る現代にあっても「紙の本」の大切さを説く。単なるアナクロニズム(時代錯誤)と即断するなかれ。情報が簡単に得られる時代の「光と影」を語るとき、人間の知の営みとは何か、という深いテーマがほの見えてくる。4月というフレッシュな季節を前にして、インタビューはまず、ご自身の青春時代の話からスタート。

 多くの若者が大学進学や新社会人としての門出に立つ季節を迎えました。阿刀田さんの青春は、夢と希望に満ちたものでしたか。

 「もちろん、希望はそれなりに持っていましたが、少し前に父が死にまして、貧乏暮らしでした。将来のビジョンがないままに1浪後に19歳で大学に入りました。高校時代まではエンジニアの父に刷り込まれて理系に進むつもりでしたが、文学も好きでよく本を読んでいました。自分は文学に向いているのでは、とも感じていました。そこで、笑い話のようですが、実際に東京工大と早稲田の文学部とを受験したんです」

 理系と文系の両方ですか。

 「ええ。結局、東京工大は落ちて、早稲田に受かったので、文学部でフランス文学を勉強することになりました。当時の夢は、フランス語をやっていましたから、新聞記者になってパリ特派員になることでした。カッコいいなあと憧れていました。ところが2年になった時、肺結核になって1年半、療養所に入りました」

 肺結核というと、戦前から「死の病」と怖がられていましたね。多くの作家や文化人も若くして亡くなっています。

 「私が療養所に入ったのは1955(昭和30)年で、その頃にはストレプトマイシンという特効薬が日本でも使われていましたので、もう死病という感じはだいぶなくなっていました。でも、私の姉が同じ病気で死んでいたので、やはり少しは死ぬことを考えましたね」

 大学に復学してからは、いかがでしたか。

 「両親を早く亡くしていましたので、大学生活は自分一人で生きていくしかなかった。3畳一間の下宿暮らし、まさに神田川の世界ですよ。アルバイトと奨学金で何とか学費・生活費をまかなっていました」

 今も大学生の就職活動は何かと大変なようですが、当時はいかがでしたか。

 「病気・療養があったので、3年遅れの26歳で就職です。どうすれば就職できるのか、苦労しました。出版社の入社試験は岩波書店など全部受けました。大体は20人くらいに絞られた最後の面接まで残るんです。でも、今から思うと、私はチャーミングな学生ではなかったんでしょう。『オレを採らないでどうするんだ!』という若さの持つはつらつとした迫力がなかったんでしょうね。面接とともに健康診断もあって、どちらが理由かわかりませんが、結局すべて落とされました」

 略歴を拝見すると、国立国会図書館に就職したとありますが……。

 「拾われたような気持ちでした。戦後、GHQ(連合国軍総司令部)が作った特別な図書館で、独立官庁です。館長は国の知のシンボルということで国務大臣待遇。選挙で選ばれた立場は別として公務員で大臣待遇は稀有(けう)でしょう。もっとも、何年か前、“小泉改革”で館長の方は1ランク下げられましたが。独立官庁だから採用も独自にすることができたので、何とか入れました。大卒ならば内部の研修で自動的に司書の資格が取れるということでした」

 国家公務員ですから、給料もよかったのでは?

 「給料ではいい思いをしませんでしたね。家内に聞いてもらったらわかりますよ。国家公務員上級職として11年勤めましたが、大蔵省など他の官庁はどんどん月給が上がっていくのに、若い官庁だからか、月給は安くて、上がっても歩の歩み。結局、これが物書きになる一番の理由となりました」

 そんなご苦労をされた阿刀田さんから、新社会人としてスタートする今の若い世代に、何かアドバイスを。

 「今の若い人はいいところをたくさん持っています。昔に比べて、社交性があり、男女格差が少なくなり平等意識が強く、良識的になってもいます。でも一方で、昔に比べて外国に行く若者が増えているけど、物見遊山と言ったらなんだけど、単に見聞を広めて、おいしそうなところだけなでているような感じがする。外国の大学で学んで、そのまま外国で仕事を探して働く、日本人としてのオリジナリティーを発揮して立ち向かっていくという精神、蛮勇というのかな、それが少なくなっているように感じます。内弁慶になっているのかな」

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