「30歳で背水の陣」

“推協賞”をいただいて、やっと普通の作家になれたと

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 ビールではないが、ミステリー小説にもコクとキレがないと、ノド越しが、いや読後感がよくない。とくに短編ミステリーはキレが命と言ってよいだろう。周到に張り巡らされた伏線や緻密なトリックが、終盤でアッと思わず叫ぶような意外な真相に化けて、読者は驚きと快感に包まれる。日本推理作家協会賞を受賞した「傍聞(かたえぎ)き」をはじめ、長岡弘樹さんの作品群は、そんな快感と満足感を味わわせてくれるエンターテインメントの王道をゆく。7月、山形市のご自宅でインタビューした。

 2003年「真夏の車輪」で小説推理新人賞、2008年「傍聞き」で日本推理作家 協会賞、2013年「教場」で「週刊文春ミステリーベスト10」1位、2014年「波形の声」で大藪春彦賞候補と、経歴を並べると、順調に作家生活を送ってきたように見えますが。

 「いやあ、僕の感じでは、とても順調とは思えません。小説推理新人賞をいただいた時は、やっとスタートの地に立ったという感じでした。その次の日本推理作家協会賞受賞までの5年間は、修業時代というか、まだアマチュアという感じでした。全然うまく書けませんでした。どうしたらうまく書けるのか、試行錯誤の連続でした」

 プロの作家になった、と思えたのはいつごろからですか。

 「やはり“推協賞”をいただいて、これでやっと普通の作家になれたと思いました。でも、受賞の第一報をいただいた時は、僕なんかでいいのか、まだ勉強の途中なのに、という思いがして、身に余る光栄という思いと、今後期待に応えていけるかどうか怖くなったというか……」

 先輩作家からは「受賞後の第1作が勝負だぞ」と、脅されたり励まされたりするそうですね。

 「はい。僕も大沢(在昌)さんからそう言われまして、怖くなりました」

 それにしても、ちょっとした人間の心理のあやというか、理解と誤解のはざまというか、その辺を巧みにミステリーの芯にした長岡作品は、質の良さを感じます。でも、ネタ作りは大変そうですね。

 「僕の場合、ほとんどが読書からヒントを得ています。人の心のちょっとした動きみたいなものを膨らませて、一本の作品にしています。例えば、昨日読んだあるお医者さんが書いた本の中に、こんなエピソードがありました。自殺未遂の女性が運ばれてきたが、助かるだろうと思って通り一遍の処置をしていたら、死んでしまった。自責の念を抱いていたところ、翌日その夫が来た。糾弾されるかと思っていたら、その男は頭を下げて、自殺だと体裁が悪いから別の死因にしてくれと頼んできた」

 実際にありそうな怖い話ですね。

 「夫は市会議員だったので次の選挙に差し障りがあるからと、現金を突き付けてきた。それで自分の自責の念が薄められたという話です。直感で、これは小説になりそうだと思いました」

 それをそのまま書くわけではないんですね

 「はい。自分より悪いやつが出てきて、罪悪感が薄められるという人間心理を、どこかで使えないかと」

 そういう心のズレ、断層、ギャップのようなものは、確かに我々の心の中にありますね。

 「読書から得たこうしたヒントをパソコンの中に入れておいて、データとしてためておきます。定期的に読み返すようにしています。今回のは2〜3年たって、ぽっと思い出した時に、何らかの作品になればいいと思っています」

 まるで醗酵、熟成を待つウイスキーだるのよう。パソコンの中は宝の山ですね。

 「いやいや、ガラクタの集まりみたいで、死屍累々ししるいるいですよ。質のいい作品になる材料はあっても、それを使って作品にする頭の中の工場の出来が悪いので、なかなかうまくはいきません」

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