「運とは不思議なもの」

毎日が楽しくて、大学4年間は人生の花でした

1/3ページ
 

 しのぎに熱心だけどどこか愛嬌あいきょうのある武闘派極道と、ひ弱な独身男だけど金もうけには執着する堅気の建設コンサルタント。この浪花の中年凸凹コンビが、軽妙な大阪弁を交わしながら社会の裏側の諸悪と戦うピカレスク小説「疫病神シリーズ」が面白い。その5作目「破門」が一昨年、151回直木賞を受賞した。記者会見の席上、「賞金は何に使いますか」との質問に、ギャンブル好きの黒川博行さん(66)は「マカオのカジノにでも行きますか」と答えて会場を沸かせた。さて、マカオには行ったのかどうか、というところから、大阪府羽曳野市の黒川さんのご自宅でインタビューは始まった。

 実際、マカオにはいらっしゃったんですか。

 「ああ、行きましたよ。去年の1月だったか、編集者たちと一緒に合計7人で」

 カジノの結果はいかがでしたか。

 「今回はあまり資金を持って行かなかった。20万円から30万円だったかな。でも、3日間いて勝ち越したのは僕だけですわ。イーブンが一人で、あとの5人はみんな負けてきました。一番ひどい人は50万〜60万円いってますわ」

 私も昔一度、マカオのカジノで遊んで、負けて取られました。素人ではなかなか勝てないんでしょうね。

 「いや、ビギナーズラックというのは本当にありますよ。それに、素人がカジノで勝てるのはバカラだけです。10万円から20万円くらい勝ち越したところでやめれば、初心者でも勝って帰れます」

 黒川さんは?

 「この頃は欲がなくなってきたので、今回も15万円くらい勝ったらやめると決めていましたから勝てたけど、昔はワクワクして24時間カジノに入り浸っていましたから、1回行くと40万〜50万円は負けていた。通算すると、3勝20敗かな。ものすごく負けてますよ。たぶんベンツ1台くらいは負けている」

 ギャンブル好きで知られていますが、そもそもは、いつごろからですか。

 「小学生の頃から花札をやっていまして、高校生の時はカードを友達とやっていました。自慢やないけど、強かったですよ。高校3年生から麻雀(マージャン)をやり始めて、あんまり負けた記憶がないですね」

 小さい頃からというと、始めるきっかけは?

 「うちのオヤジがバクチが大好きで、僕の子どもの頃は遊びといえばバクチしかなかったですから。オヤジは九州から和歌山までの製油所や工場に油を運ぶ内海航路の船主・船長でした。よく船員をうちに呼んでは花札をやっていたので、僕はそれを見ながら育ったんです。だから、中高生のときに友達と花札をやっていても、一切叱られたことはなく、むしろ『やるからには勝て!』と言われたくらい。腕のところに、花札禁止という意味を込めた『花禁』と入れ墨を入れていた、どうしようもないオヤジでしたが、まあ、働き者は働き者で、それで我々を育ててくれたんですわ」

 父親の仕事を継いで船乗りになる、という気持ちはなかったんですか。

 「まったくありませんでした。大学受験に落ちて1浪したとき、パチンコや麻雀ばかりしていて、オヤジに『わしの船に乗れ』と言われて、僕も1年間船の雑用をやったんです。それがどれだけつらかったことか。それから何とか逃げ出そうという気持ちで、もう一度美大を受けさせてほしいと頼んで、結局、2浪して京都市立芸術大学美術学部彫刻科に合格しました。初めはデザイン科を受けてダメだったので、彫刻科に切り替えて何とか受かりました」

 1969年4月の入学ですね。将来はこういう彫刻家になりたいなど、入学当初は何か夢を持っていたんですか。

 「何も考えていませんでしたねえ。卒業後のことも、美大出身者にはあまり就職口もないから、大学院に残るか、私学の講師になるか、高校の美術教師になるか、くらいです。実際、彫刻科に入った同期9人のうち、卒業後の進路をみると、僕ともう1人の2人だけが企業に就職しました」

 そうすると、大学4年間は彫刻制作に没頭した青春ですか。

 「毎日が楽しくて、大学4年間は“人生の花”でした。というのも、僕は毎日のように麻雀をやっていて、1年200日×4年間で800回くらい麻雀をやっていましたから。当時、大学紛争の影響で授業がなくて、リポート提出だけで単位がもらえたこともあったんですね。それに彫刻科の校舎だけ少し離れた丘の上にあって、今では考えられませんが、24時間開放されていて何をやってもよかった。深夜の3時、4時に缶蹴りしましたよ。校舎の宿直も学生が1日500円のアルバイトでやっていて、だから毎晩宿直室で麻雀ですよ。バンカラ学生が集まってきて、酒は飲むわ、雑魚寝はするわ……まあ、人生の花でしたわ」

戻る
  • JT
  • 日本推理作家協会