「賢治の言葉を伝える」

僕の本はだいたい長いですから

1/3ページ
 

 肩書なんてどうでもいいじゃないか。そういう人も世の中にはたくさんいるが、古川日出男さん(50)はそうではない。「僕は小説家でいたい。小説家から離れたくない」という強い気持ちを持っている。今年あの世に旅立った演出家の蜷川幸雄さんの2014年演出の舞台「冬眠する熊に添い寝してごらん」の脚本は、蜷川さんから直接執筆依頼を受けて書き下ろした作品。岸田國士戯曲賞候補に挙げられたが、あくまで「小説家として戯曲を書いた」とこだわり、「劇作家」という肩書を嫌がる。そこには演劇青年時代の苦い思い出があったのか。

 若き日々には芝居をやっていたんですね。

 「自分で劇団を作って、19歳から24歳までやっていました。その間に、30本くらいは脚本を書いて演出もしていました」

 早稲田大学には昔から劇団、特に小劇団が多くありましたよね。一つ一つは説明が大変でしょうから、ざっとどんな劇をやっていたんですか。

 「いわゆる映画的、漫画的、小説的なカルチャーのごった煮のような内容を異様な量の音楽にのせてハイスピードで演じたようなものですね。でも、25歳になる前に、人生やり直そうと、芝居をやめました。それまで書いてきた一切の脚本類を全部ごみとして捨てました。かみさんには止められましたけど、ここで退路を断たないといけないと思って捨てました。小説家になるという覚悟を決めましたから」

 芝居を捨てる、演劇から足を洗う、そのきっかけになったのは何ですか。

 「作った劇団(その名前は言えません!)は10人くらいでやっていまして、自分の頭の中にあるイメージの舞台を作ろうとしても、まずプロの役者は使えない、集めた金では満足な舞台装置もできないといった外的条件がすごく悪い。カネもヒトも足りないと、仲間うちで甘えが生じてきて、イメージしていたものが実現できない。それを実現できるのは、たった一人でできる小説しかないじゃないかと。それで25歳から小説一本に絞って書き始めました」

 戯曲、芝居脚本を30本も書いてきたんだったら、すぐにいろいろな小説が書けるのでは、と思う人が多いでしょう。小説家志願までに、何作か小説は書いていたんですか。

 「いや、一作も書いていませんでした。小説は読んではいましたが、小説の書き方を知らなかった。書き上げた原稿をどうすればいいのか、編集者に手渡す段取りもわからなかった」

 作家の卵は、いろいろな公募の文学賞に応募する例が多いのですが、出したことはありますか。

 「一回だけあります。第1作を早川書房のSFマガジンに出しましたが、『これはSFではない』と評されて落ちました。幸いその後、学生時代から働いていた編集プロダクションの知り合いが幻冬舎の編集者の一人を知っていて、1000枚を超す原稿を書き上げたときに、幻冬舎に持ち込むことができました。これも縁ですね」

 日本推理作家協会賞と日本SF大賞をダブル受賞した「アラビアの夜の種族」(幻冬舎)はとても分厚い2段組みで、すみません、今日のインタビューまでに読んでおこうと思いながら、結局、半分までしか読めなくて。

 「いえ、僕の本はだいたい長いですから」

戻る
  • JT
  • 日本推理作家協会