本当に申し訳ない
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吉村昭のノンフィクションが好きだと、よし俺も書いてみようと、例えば現場に行って調べて書く取材記者になりたい、という夢は持たなかったんですか。
「僕はその場その場で真面目にやってきたタイプですが、自分の人生を前向きに切り開いていこうというタイプではなかった。今も同じで、前向きに何かやるということはなくて、そこが無気力なんですね。本当に申し訳ない」
夢といえば、例えば小学校卒業時に「将来の夢」をテーマに文章を書くことがよくありますが、その頃は何になりたいと?
「あの頃は漫画家になりたかった。松本零士の漫画が好きでした。人前に出るのが嫌な子どもでした。映画も好きでしたが、将来役者になろうとは思わず、スタッフになりたいと思っていました」
教室の片隅で一人本を読む少年、というイメージですか。
「いや、結構友達はいて、よく遊んでいましたよ。でもクラスの人気者というわけではなく、授業中も進んで手を挙げるタイプではありませんでした。まあ普通の子どもでした」
結局、作家になろうという気持ちを持ったのは、いつですか。
「ずっとフラフラしていましたけど、25歳になって、いよいよまずいなと思い始めました。というのも、当時の情報誌『アルバイトニュース』では年齢制限があって、タイプ25だと別になる。ページをめくっているときに『社』という文字が見えて、つまり正社員募集の文字が見えて、結局、そこに行って正社員として就職したんです。東京・池袋にあった小さなホテルでした。この会社で10年間勤めて、そこを辞めてから小説を書いてみようということになりました」
10年間のホテル勤務というと、どんな内容ですか。
「ホテル勤務といっても、僕はすぐにサウナ部門の担当になって、そこで5年間働きました。サウナがつぶれた後、今度は新たにできた漫画喫茶の店長というか、4店舗の統括運営管理者として、さらに5年働きました。今でいうネットカフェの走りですね」
客商売ですけど、そんなにきつい仕事というイメージはないようですが……。のんびりと本が読めるような仕事場ではなかったんですか。
「いやいや、池袋の深夜ですからね。次々と問題が起きて、夜中の一人勤務の時など、客は僕を苦しめるためにやってくるのか!と叫びたいくらいでした。まあ、文句を言いながらも真面目に働いていましたが、クレームをつける客、飲んでもどす客、お漏らししちゃう客、ヤクザが来るし、ホームレスも来る。そこは男性だけのサウナでしたが、とにかく仮眠もできないくらいくたくたになる。さらに僕は機械好きだったので、ボイラーさんに教わって、温度管理も自分でやっていました。自分の人生、こんなものかと、出世も何も考えずに働いていました」
漫画喫茶なら静かな環境で働けたのでは?
「いやいや、これもまたいろいろ問題が……。24時間営業の店が四つあって、店長というか、すべてを統括する運営管理者をやっていましたから、むしろサウナよりもひどかったですね。何度110番通報したことか。無銭飲食して開き直るヤツがいたり、集団すりの被害に遭ったり、一回は店内で死人が出たこともありました。救急車で運ばれて病院で死んだのですが、結局、病気だったとわかり、うちのせいでなかったのでホッとしましたが。四つも店があると、『今日担当のバイトがまだ来ていません』とか『客が怒っています。何とかしてください』など、夜中に電話で起こされることが少なくなかった。まだネットカフェ難民という言葉ができていない頃でした」
サウナ、漫画喫茶でそれぞれ5年ずつ働いて、合計10年そこで勤務したわけですね。辞めるきっかけは?
「4週間で休みは6日だけという勤務を10年続けて、くたくたになって消耗しました。1冊の本を読もうとしても1週間かかるほどでしたから」
辞めた後、すぐに小説を書き始めたんですか。
「いえいえ、その頃もまだ小説家になろうなど全然考えていませんでした。36歳で無職になりましたが、安いとはいえ、10年間働いた給料の蓄えがありましたから、毎日図書館に行って、本を読んでブラブラしていました。練馬、中野、新宿区の図書館をハシゴしていました。中野区の図書館の近くの公園でよく昼めしとしてパンを食べていましたら、ホームレスのおじさんが『あそこで炊き出し、やってるよ』と親切に教えてくれるんです。いや、行きませんでしたけど、もし小説を書かずにあのままの生活を続けていたら、たぶん今ごろ僕はホームレスになっていたでしょうね。作家として売れなくなっても、それはそれまでで、落ちぶれたと思われてもいい。今はこういう仕事をしていますと言うだけです。扶養家族もいないし、一人だからバイトで食いつないでいけばいいと考えています」