「プロレスのおかげです」

絶対に最後まで泣かないヤツ

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 「小さい頃からプロレスと格闘技が好きでした」。顔を合わせると、すぐにそう話して、「今日はこれを持ってきました」と寅さんばりの古いトランクを広げた。中から出てきたのは、プロレスグッズの数々。力道山親子孫3代のサインの入った色紙を誇らしく見せると、今度はデスマッチレスラーたちの流血写真集のページを繰る。リングに登場するや、いきなり乱闘を繰り広げるプロレス特有のパフォーマンスか。今年の第62回江戸川乱歩賞を「QJKJQ」で受賞した佐藤究さん(39)は、作品にプロレスの汗と血がしみ込んでいる作家かもしれない。

 本当にプロレスが好きなんですね。何歳ごろからですか。

 「タイガーマスクが負けたのを見て6歳の弟が泣いた、いや藤波に負けたアントニオ猪木を見て泣いたときかな、僕が8歳のときでした。オヤジも好きで、『ジャイアント馬場は負けても絵になるやつだ。よく見ておけ』と僕らに言うんですよ。子ども心に、去る者の哀愁というか、負けた馬場や猪木の背中のカッコよさが刷り込まれていたんですね」

 そもそもは、お父さんが好きだったわけですね。

 「父は福岡大学の学生のころ、重量挙げの選手で、全国大会には出なかったようですけど、全九州大会ではチャンピオンになっていて、自宅にはトロフィーがありました。卒業後はペンキ職人をやっていて、僕が子どものころでもいい体をしていて、大胸筋なんかすごいですよ。胸をたたいて、僕らに『ここに空手チョップを打ち込んで来い』と言ったり、僕ら兄弟2人を背中に乗せたまま腕立て伏せをしたりしていました。体育館でベンチプレスを挙げるところを、たくさんの人が集まって見ていましたからね」

 そのころというと、1980年代半ば。当時のプロレスというと、戦後一気に国民的娯楽となったプロレス人気の立役者、力道山が1963年に急死した後、長年日本のプロレス界を背負ってきたジャイアント馬場とアントニオ猪木の二大巨頭も、そろそろ後継者へバトンタッチか、という時期でしたかね。

 「テレビ中継も金曜、土曜とあって、よく見ていました。僕は当時、プロレスラーの中では小さいほうの長州力を応援していました。ジャンボ鶴田によくやられていましたね。ペイントレスラーのロード・ウォリアーズには子ども心に衝撃を受けました」

 ご自身もプロレスごっこや格闘技の類いはしていたんですか。

 「いや、高校の時は極真空手の道場に1年通い、授業で剣道はやりましたけど、そんなには……。うちのオヤジは体重100キロあって、子どもが悪いことをすると、悪いことといっても階段をでかい音を立てて上ると、スクワット100回とか腕立て伏せを僕らにやらせました。時には、けさ固めを決められたり、怒ったときは壁まで吹っ飛ばされることもありました。まるで人間じゃない、何か違った動物のような半端じゃないパワーでしたから、このフィジカルをこちらが身につけるまではかなわないと」

 かなり肉体派、武闘派でもあったようですね。

 「当時の福岡というか九州は、まだまだ体罰の文化が色濃く残っていましたから。近所のおじさんも棒を持ってウロウロしていましたし、学校も先生が生徒を殴る、殴る。昭和の空気が濃厚でしたね。小さい頃からオヤジがバリカンで僕の髪を刈っていたんですが、小学校1年生の時から中学3年生まで、必ずそり込みを入れるんです。よくからかわれましたし、聞かれました。『その筋の息子か?』、『君のお父さんはそっちかね?』と。学校では、僕のそり込み頭を見ただけで、いろいろな教師が殴ってくるんです。学校の体罰はひどかったですね」

 私はまさしく昭和の団塊の世代ですけど、中学校では連帯責任とやらで教師に硬いボール紙でできた出席名簿でクラス全員、頭を殴られていました。少年時代の佐藤さんは、不良だったわけではないんですか。

 「そり込み頭ですから、そう見られていましたが、不良少年ではなかった。でも、不良とは仲が良かったので、不良少年と友達の変なヤツ、とは思われていました。休み時間、教師が棒を持って生徒たちを立たせて、一人一人泣くまでぶっ叩く。ところが僕だけ泣かなかった。なにせ、うちではオヤジにけさ固めをかけられて、もう苦しくて『助けてください』と神仏にすがっていましたから、そう簡単には泣かない。だから仲間内では、強いヤツ、ではなくて、絶対に最後まで泣かないヤツ、と呼ばれていました」

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