フェイントでテークダウンが取れた

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 髪形だけで殴られる、というのも理不尽なようですが。

 「なにせ、通っていた高校が『ビー・バップ・ハイスクール』のモデルになった男子校でしたから。問答無用ですよ。今は共学になっていて、見る影もありませんが。当時、学校では友達はいましたが、僕には帰る場所がない、居場所がない、と感じ始めていて、今から思うと、それが文学の始まりだったかと」

 で、高校は無事に卒業できた?

 「とくにコトも起こさず、のらりくらりと過ごして、無事に卒業しました。うちの高校は男子進学校で、ほぼ全員が大学に行くのに、あの頃は僕を含めて2人だけですね、進学しなかった」

 文学を志して?

 「まあ、あの頃、本はたくさん読んでいましたけど、とくに大学に行ってまで勉強したいものがなかったということですね。学校でよく殴られていましたから、もう学校そのものがイヤだという気分もあって。それに、付属でしたから、そのまま進学して福岡大学に行ってもオヤジの後輩になるのもイヤだなあと。ではどうするんだ、と卒業後のことを先生から聞かれたとき、僕は『小説家になります』と答えました。そのとき、多くの先生がトンチンカンなことを言う中で、僕をよく殴っていた英語の先生が『働きながら書くのは大変だぞ』と言ってくれたのが、今となっては身に染みています、その通りだなと」

 それで、高校卒業後は、どこかで働き始めたんですか。

 「卒業後のことを両親に相談したとき、僕ははじめ『福祉系の学校にでも行こうか』と言ったんですが、さすが父も母も僕という人間をしっかり見抜いていて、そんなのに興味がないだろうと。かあちゃんにしてみれば、大学を出てもペンキ屋になった父を見ているから、お前も手に職をつけた方がいい、どうせ会社に入ってもすぐ辞めるだろうと。で、自動的にオヤジのペンキ屋に組み込まれました。朝6時起き、高校の時よりきつく厳しい生活で、小説を書くどころではなかった」

 ペンキ屋といえば、ビートたけし、北野武さんもオヤジさんがペンキ職人でしたね。

 「そうそう、あの職人かたぎなところ、よくわかりますよ。まあ、オヤジと僕との共通の話題といえば、プロレスだけでしたけどね。そうしてしばらくペンキ屋の仕事を続けているとき、転機になったのが、福岡大学の仕事現場に行った時でした。キャンパスでは、高校を卒業したヤツらが、女の子たちとワーワーやっている。こちらは安全帯をつけて作業場でペンキを塗っている。そのときに急に思ったんです、このまま俺の人生が終わるかもしれない、まずい!と。そこで、とりあえず、家を出よう!と決めて、福岡市内のアパートを借りて1人暮らしを始めました」

 それが、作家への第一歩だった。その後、略歴を見ますと、2004年6月号の文芸誌「群像」に掲載された「サージウスの死神」で、第47回群像新人文学賞優秀作を受賞していますね。その後も何作か発表していますが、「群像」誌に掲載される小説といえば、私の頭の中では純文学系のものだと……。

 「はい、僕はもともと純文学出でして、優秀作をいただいた後、まわりの編集者の方々から『いつか芥川賞を』と期待されながら、郵便局の深夜作業などのアルバイトをしながら書き続けてきましたが、なかなか……。2014年7月、編集者に『僕、純文学に向いていないな』と話して、エンターテインメント作品を書いてみようと思い立ち、翌年初めて江戸川乱歩賞に応募したら、1次選考に引っかかっただけでした」

 やはり、がっかりした?

 「いえ、ここで僕の“プロレス頭”が、審査員のこんな声を聞いたんです、もう一回来い! ここで去ったら男がすたる……なんて声がね。純文学とは全然違うジャンルで敷居も高かったんですが、書きながら面白いなと思ったものですから、よし、引き続きこのジャンルで勝負してみようと」

 なるほど。リングから場外に逃れたレスラーに対して、「もう一度リングに戻って来い!」と対戦相手が挑発するパフォーマンスですね。それで2作目に挑戦して受賞したわけですが、純文学でなくミステリーの世界で書いてみようという思いが湧いてきたルーツというか、例えれば大河を河口から上流にさかのぼって山の頂上付近の水源でポタリと垂れる一滴のしずくといいますか、どんなことが創作のきっかけになったんですか。

 「それも実はプロレスと関係がありまして、2013年にさかのぼります。新宿・紀伊国屋で格闘家のヒクソン・グレイシーと会ったのがきっかけです。サイン会でした。ファンが100人ほど並んでいて、後ろの方で並んでいました。見ると、ヒクソン・グレイシーは、ファン一人一人にサインした後、2ショット写真を撮り、自分の胸を2回たたいて強さを誇示する、というルーティンを繰り返していました」

 ファンサービスとしてやっていたわけですね。よくありますよ。

 「はい。でも、そのサービスに喜々としている日本人を見ているうちに、僕はムカついてきたんです。1997年10月11日、高田延彦・ヒクソン戦で高田が何もできずに負けた試合を思い出して、写真なんか撮っている場合じゃないだろうと! そこで僕の番が来た時、写真は結構です、オブリガード(ポルトガル語でありがとう)と言って去っていったんです」

 ヒクソン・グレイシーはどんな顔をしていましたか。

 「俺と2ショットを撮りたくないヤツなんか、いるわけないだろうと。長い列の1時間、ずっとやってきたルーティンを急に止められたわけですから。僕は僕で、他の人と同じようにここで2ショット写真を撮ったら俺の負けだと思った。そうしたら、僕が去ってしばらくしたら、ヒクソン・グレイシーが胸を2回叩いたんです、誰もいないのに。この瞬間、僕は胴タックルが決まって勝った!と思いました。フェイントでテークダウンが取れたと。素人の僕でも、フェイントをかけられるんだ、ワンデートーナメントだったら勝てるかもしれないと。有名な推理小説やミステリーをあまり読んでいない素人の僕でも、エンターテインメントの世界で誰も思いつかないような変化球で勝負すれば、優勝(受賞)とはいかないまでも勝てるかもしれない、つまり編集者から電話連絡くらい来るかもしれない、という思いが湧いてきました」

  • JT
  • 日本推理作家協会