「恨まない、妬まない」

かけがえのない自分を基に生きる

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 腹が据わるというか、覚悟を決めるというか、迷わずに針路を真っすぐに定めるというか、「私は私」と開き直るというか。いずれにしても、人が生きる上で「これだけは譲れない」というポリシーのようなものを持つきっかけになる体験として、①目の前に三途さんずの川を見たような大病経験、➁政治犯のような重大容疑で投獄された経験、③あなたなしでは生きてはいけないと入れ込んだ揚げ句の大失恋経験……が、かつての定説(俗説?)として挙げられる。「私のポリシー」第1回の阿刀田高さん(81)の場合は、若き日の大病経験がその後の人生観を決めたようだ。

 日ごろ、これだけは守っているもの、あるいは必ず決めてやっているルーティンのようなもの、大きくいうと人生哲学のようなもの。それを「私のポリシー」というタイトルでお聞きします。

 「大上段に振りかぶるほどのものではありませんが、私のポリシーといえば、ひとを恨まない、妬まない、ことです。他人がどうあれ、かけがえのない自分を基に生きていくしかない、という生き方ですね」

 それはいつごろから、どういうきっかけで意識し始めたのですか。

 「私は大学に入学した後、20歳のときに肺結核になり、1年半、療養所生活をしました。早稲田大学に入ってフランス文学を学んでいて、将来はフランス留学をしたい、卒業後は新聞記者になって海外特派員になりたい、という夢を持っていましたが、新聞記者は一番きつい労働ですから、弱った体では無理と諦めました」

 アメリカから特効薬が入ってくる戦後数年までは、日本では肺結核は死に至る病の代表格でした。治るにしても、安静にしていて、なかなか時間がかかる厄介な病気でしたね。

 「3カ月ごとにレントゲン検査をして、主治医が『だいぶ治っているね』というものですから、うれしいな、まもなく退院できるのかなと喜んでいると、もう少しね、と。そしてまた3カ月後の検査で『ずいぶんよくなっているね』と。でもまた3カ月後に、と結局それを6回繰り返して、1年半療養所にいました。退院後も半年治療していましたので、2年かかりましたね」

 若いときですから、のんびり治療に専念するという気分ではなかったでしょうね。

 「入院中、大学の友人たちが見舞いに来てくれるんですが、それぞれ卒業後にあれをしたい、これをやるつもりだ、と夢を語る。みんなはすでにゼロ地点にいて、そこからプラス1、プラス2……と展望しながら進んでいける。それに比べて当時の私は、すでにマイナス3の地点で、そこから頑張ってもマイナス2、マイナス1とゼロに向かって努力するしかない。悔しかったですし、残念で仕方なかった」

 友がどんどん先に行ってしまうという焦りもあったでしょう。

 「はい。でもある日、自分自身がA君になれるわけでもB君になれるわけでもない。人に代わってもらえないんだと、繰り返しそんな単純なことを思うようになりました。かけがえのない自分を基にして生きていくしかない、ひとを恨んだり妬んだりするのはやめよう、今の自分の上に少しでも積み上げていくしかないと思うようになりました」

 一種の悟りですね。

 「はい、悟りといったほうがいいかもしれませんね。自分を基に考えるしかないと。大学に戻ると、自分よりもっと苦しい立場の人がいっぱいいるのがわかり、誰でも何らかのハンディを背負いながら生きているという現実を知る。まさにかけがえのない自分を起点にして生きていくしかない、ということが身に染みてよくわかりました。退院後、私は“七割の人生”と言っていますが、あまり大きな野心を持っちゃいけない、7割で満足しよう、ひとに焼きもちを焼いてはいけない、仕方ないじゃないかと思うようにしようと。結核になったけど、死ぬこともなく生きながらえたんだから良しとしよう。あまり世の中を恨まないで生きていこうと。その思いは一生ずっと貫いていて、今でもそう思っています」

 まさに、自らの経験からにじみ出たマイ・ポリシーですね。

 「実に単純なことですけど、骨身に染みて感じたことは本当ですね。恨まない、妬まない、それに加えて足るを知るということも。その後、運にも恵まれて作家生活を送れて、結果的にはうまくいった人生だった、上出来だったなと思いながら生きてきました」

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