「いつか来た道は通らない」

憧れの先輩作家たちの警咳に接することができた

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 大声に悪人なし、と昔の人は言った。腹に思いをためずに、言いたいことを率直に口に出すから、ということだろう。作家、大沢在昌さん(61)も大声の持ち主だ。しかも、屈託のない朗々たる音声を響かせ、ときにガハハと笑う。野太い声からは陽気・熱気・元気が発散され、もしかしたらフェロモンも含まれているのか、声の主の周りにはやたら人が集まる。思わず「大沢親分」と言いたくなるほど、面倒見の良さがある。ご本人は「人を楽しませることが自分の楽しみになっているだけですよ」と謙遜しているが・・・・・。

 日本推理作家協会が、今年創設70周年を迎えました。大沢さんも2006年から2009年にかけて理事長をされていましたから、何かと感慨があるでしょうね。

「昭和22年(1947年)に江戸川乱歩さんが中心となって作ったもので、はじめは任意団体の日本探偵作家クラブでした。その後1963年から社団法人日本推理作家協会となり、今は一般社団法人になっています。確か阿刀田高さんが理事長の時に50周年を迎えて、文士劇をやりましたね。僕が理事長のときに60周年記念で、立教大学でミステリーカレッジを開きました」

 協会とはすでに相当長い関係がありますね。

 「作家生活の大半を協会と過ごしたことになります。確か25、26歳のときに入れてくれました。28歳のときに理事をやれと、(師匠の)生島治郎さんから言われて。それもただ若いからという理由でした。とにかく奴隷のようにこき使われましたよ。当時の協会は体育会系というか、ヤクザの事務所みたいというか、荒っぽくて怖い感じでした。何か交渉事がある時は、相手を脅かしてこいよ、と生島さんに言われて」

 例えば、どんなことをさせられたんですか。

 「イヤな役回りばかり僕に来るんですよ。原稿料の値上げ交渉に行ってこい、お前みたいなチンピラが行ったほうがいい、とか。ある時、理事会の司会をした時、ある年配の理事に日本推理作家協会賞の選考委員をお願いしようということになりまして、お前が頼めと。ところが、その方だけ受賞歴がなかった。つまり、選考委員になれということは、もうあんたには受賞の芽がないよということ。なんでオレに! その方は当日、理事会に遅れてきて、その件を切り出したところ、『え、賞をいただけるんですか。それはうれしいですねえ』と。いえいえ、実は……と告げた時に何とも言えない表情をされたのを今でも覚えています」

 確かにつらい役目ですね。

 「奴隷みたいにこき使われている、と愚痴を言ったら、生島さんから『お前は奴隷なんだよ』と言われ、『イヤだったらどんどん若いヤツを入れて、若い奴隷をお前が鍛えろ』と。その後、真保裕一君らを理事にしたりしましたが、彼らも協会の雰囲気にびっくりしたんじゃないですか」

 戦前戦後と長らく文壇という世界が存在していて、日本推理作家協会でも初代理事長の江戸川乱歩から松本清張、島田一男、佐野洋、三好徹、山村正夫、中島河太郎、生島治郎、阿刀田高、北方謙三……と諸先輩がピラミッドのように君臨していた時期がありましたね。

 「そう。つらい思い出ばかりでなく、憧れの先輩作家たちの警咳に接することもできました。大半はもう鬼籍に入られていますが、いろんなタイプの先輩がいて、20人近くの理事の作家たちにもまれ、いじられ、近くで接するとカッコいいなあ、この人はこんなところがあるんだ、と作家の人間としての面が垣間見られて、すごく勉強になりました」

 作家の素顔を描写する読み物も以前はよく出ていましたが、今ではそういうものを書けるのは大沢さんくらいでは?

 「う〜ん、僕くらいかもしれませんね。でも、そういうものは評論家が書くべきです。作家が書くのには抵抗があるというか、ずるいように思えてね。僕がやることかどうか。でも、当時、多くの作家の人間的なところが見られて、ドキドキしたり、楽しかったり、そこにいられるだけで晴れがましい気持ちになっていましたね」

 今でも若い作家たちとの交流があるんですか。

 「先輩後輩の交流は、僕の若いころと比べると、少なくなっていますね。昨年還暦を迎えた僕が『さあ、飲みに行こうか』と若手を誘うと、『勘弁してください』とクモの子を散らすように逃げていく。大体において、若い人はおびえている」

 以前、大沢さんがおっしゃっていたことを思い出しました。今の若い作家の中には、年収200万円程度でもいいというのがいると、嘆いていましたね。いい車が欲しくないのか、女にもてたくないのか、と。

 「そうそう、欲がない。学生時代のままの生活でいいというのもいる。もっと欲をもってほしい。でないと作家としての成長がないと思う」

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