自分がいた痕跡を消したい

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 高齢者問題は日本が世界のトップを走っているわけですが、今年秋に還暦を迎える楡さんご自身、“老後”はお考えになりますか。

 「還暦は特に意識しませんね。単なる通過点かなと。今の日本社会では不老長寿がいいという考えが一般的ですが、延命措置で辛うじて生命を維持しているような状態での長寿、というのに意味があるのか、と私は思っています。うちの母は延命措置は不要という意思表示を自ら書面にして子どもたちに託しています。ただ、苦痛を取り除く措置だけはしてくれと。だから私も意思表示しています。家内と話し合って、私が風呂の中で沈んでいるのを見つけても、迂闊に救急車を呼ばないように。意識のないまま寝たきりの生活はイヤだからって。半分冗談、でも半分は本気ですけど」

 まあ、人間の生命力は意外と強くて、奇跡的な蘇生力もありますからねえ。ただ、意識のないまま寝たきり状態で何年も生きることについては、多くの人がつらい選択を迫られているのは確かですね。意識があっても、例えば自分の口から食べ物が取れなくなった人に直接胃にカテーテルを取り付ける胃瘻(いろう)手術も、欧米では延命措置のためなら拒否する人が多いと聞きました。そこまでして生きたくない、という考えなんでしょうか。

 「私は子供がまだ中学生なので、もう少しは長生きしたいと思っていますけど、ぽっくりは嫌です。余命宣告がされるような病で死にたいですね。変なこと言うようですけど、その間に自分がいた痕跡を消したい!」

 え、いた痕跡を残したい、でしょう?

 「いえいえ、残したくない! 少なくとも家庭内にある自分の服や本や写真など身の回りの物を全部処分してから、ということですけどね。だって、残された人がかわいそうでしょう。田舎の祖父母が残したものがたくさん残ってますけど、なかなか捨てられないんですよね。二度と見ないものや着ることはないものばかりなのにね。そういうものを見ていると、自分の場合は一切合切きれいさっぱり処分してから死にたいと」

 でも、今こうしてお会いしておりますと、極めて健康そうに見えます。

 「今は2カ月に1回、血液検査をしていますが、数値はとてつもなく優れていて、医者がびっくりするほど何も異常がない。善玉コレステロールなど、こんなにいっぱいいる男の人は珍しい、と言われるくらいです。でも以前は寝ているときに2分間も呼吸していなかったことがあったんです。医師に窒息してますって言われて」

 いわゆる睡眠時無呼吸症候群、ですね。いつごろですか。

 「もう10年ぐらい前ですね。40歳代から50歳ごろにかけて。当時は酒を相当飲んでいて、寝ているときにオエッとなって、吐血かと思いきや胃液なんです。そういう状態の時、体の中はどうなっているかというと、脳は酸素が足りないと指令を出し続けるから休まらないし、心臓も一生懸命働いて血を送る。体全体の臓器に負荷がかかりますから、血圧も高くなれば、いろんな数値が悪化するわけです。今はCPAP(シーパップ)装置を付けているので、一切問題はありません。この治療を続けているおかげですべての数値が劇的に改善しましたね」

 では、好きなお酒も控えめに?

 「いえ、今も365日、毎晩飲んでいます。ビール1缶350ミリリットル、焼酎の芋か麦の1升瓶を4日で1本空けるくらいかな。ワインも時々飲んでいます」

 あまり生活が変わっていないようですが……。

 「いや、以前は外でフラフラとよく飲み歩いていましたが、今はほとんど夜の街に飲みに出なくなりました。毎日家で晩酌しています」

 それはまた、何がきっかけですか。

 「2年半前から犬を飼い始めましてね。家内と子どもが飼いたいというのを、私は反対したんです。誰が毎日散歩に連れていくんだ、責任もって世話できるのか、無理だろうと。でも2人で見に行くと家を出ていった。そうしたらやっぱり1匹連れてきたんです。さすがに連れてきたものを返してこいとは言えず、そのまま飼うことにしたんですが、当時は子犬でしたから、これが可愛いんですよ。情も移る。今は成長して中型犬になりましたが、本当にいいヤツなんです」

 犬種は何ですか。

 「ボーダーコリーのオスで名前は小鉄。コリー犬はだいたいそうですが、中でもボーダーはずぬけて頭がいいんです。私が風呂に入ってるときは脱衣場で待ってるし、それでいて仕事場には絶対に入ってこない。雰囲気を読むんですよ。今は毎日、朝5時と夕方5時の2回、散歩するのが私の役目になっています。これで生活がガラッと変わりました。夕方散歩をすると汗をかき、風呂に入ってすぐ晩酌、そして9時から10時にかけて寝る。朝は4時から5時に起きて犬と散歩に出ます。おかげで健康になりました」

 ドッグイヤーがありますから、いつかはお別れが来る。“愛犬ロス”に苦しむ人もたくさん身近に知っています。

 「ええ、犬の寿命は大体15年と言われており、今年私が還暦を迎えるから、私が70何歳かであいつをみとることになるんですねえ。それをふと考えると、切ないというか、つらくなります」

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