知の架け橋

「震災・防災を考える」①
東日本大震災が与えた衝撃
日本人に突きつけられた課題の大きさ
工学部建築学科 加藤仁美 教授

2011年11月1日掲出

 阪神淡路大震災(1995年)が多少落ち着いた時期に、ある学会で都市計画の大御所の先生が「今度はどこで起こるか分かりません……」とあいさつされていたことを思い出す。若輩者の私は、まさかこんなことが再び起こることはないと信じていた。

 東日本大震災による惨状は、あまりにも衝撃的であった。人の暮らしも町も根こそぎ奪われる壊滅的な被災状況、さらに恐るべき原発被害である。私たち日本人は、まさに災害列島で暮らしていることを思い知らされたのだ。津波と地震動による被害は6県にまたがり、沿岸の中小(人口5万人以下)の市町村が4分の3を占め、その中には400〜500の集落が存在するといわれている。

 阪神淡路大震災のような都市型災害とは異なり、今回の被災地は高齢化と人口減少による過疎化が進みつつある地域である。生活とともになりわいの場も失われ、復旧・復興への道筋が見えにくい。


被災地で行われたワークショップの様子

 チャレンジセンターで建設した大船渡市三陸町越喜来泊(おきらいとまり)地区の仮設公民館で、また仮設住宅の集会所でも、ワークショップなどを通じて被災者の方々のお話を聞く機会を得た=写真。泊集落では62世帯のうち、低地の津波の浸水域で25世帯が被災した。そのうち9軒は仮設住宅に、そのほかは親戚や近くのアパートに身を寄せている。防潮堤は破壊され、海側の三陸鉄道は線路がねじれ落ち、瓦礫と化した家屋や生活用品の残骸の広がる被災地に立つと呆然とするばかりであった。元の公民館近くには小さなお店もあり、集落の中心でもあったが、みな流されてしまった。

 一人ひとりのお話をうかがうと、「今までの家族のようなつながりを保ちたい」「"岩手の湘南"といえる自然環境を維持したい」「浸水した低地には怖くて戻りたくない」と言う。ではどこに住むか。多くが漁業権も農地も持つ半農半漁の暮らしをしていて、復旧すれば自給自足で食べることには事欠かない。山側にも土地を持つ人も多い。ゆっくりとした時間の中で互いに助け合いながら、豊かな生活を送ってきたことがくみ取れた。私たちが失いかけていた何かを思い出させてくれる体験でもあった。

 国や県の復興計画では、高台移転や地盤のかさ上げで新しい街をつくるという発想が主流となりつつある。しかし、被災者の方々は、土地利用や公共施設を集約した町での、便利な生活を求めてはいない。むしろ既存の地形、自然の風景や資源に囲まれた中で展開されてきた震災前の日々の暮らしの延長上にこそ、復興の方向の答えが見いだされるものと感じた。

 東日本大震災は、1945年に始まった戦後の復興後、経済成長を前提に都市づくりやものづくりにかかわってきた私たちに、大きな課題を突きつけている。災害文化、エネルギー問題、自然との共存、生活とは、地域とは……一人ひとりが向き合うべき課題である。日本人よ目を覚ませ、そして大きく舵を切れ、ということではないだろうか。

かとう・ひとみ

1955年東京都生まれ。日本女子大学家政学部住居学科卒業。東京都立大学工学研究科建築学専攻修了。専門は都市計画。著書に『未完の東京計画』『近代日本の郊外住宅地』など。

(記事提供:「東海大学新聞」2011年9月1日号)

関連リンク:工学部
http://www.u-tokai.ac.jp/undergraduate/engineering/index.html

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