陸上に明け暮れた大学時代 ファイナリストになれたマネジメント力:体育学部 高野髙野進教授

 400メートルの選手として、五輪3回、世界選手権に3回出場した東海大学体育学部の高野進教授。1991年の世界陸上東京大会では初の決勝進出で7位、92年のバルセロナ五輪では60年ぶりに短距離で決勝進出という偉業を成し遂げた。91年の日本選手権で出した44秒78は今も日本記録だ。大学で教壇に立ちながら、指導者としても世界陸上銅メダリストの末續慎吾選手や、塚原直貴選手らを育成。日本陸連強化委員長として7月27日から始まるロンドン五輪に向けて準備に余念がない。【聞き手・毎日jp編集部、小座野容斉】

 --大学時代の高野先生はどのような選手でしたか。

 東海大学には、体育学部ではなく、文学部の文明学科に入りました。私は走ること以外のスポーツが得意ではなかったので、高校の恩師が「体育学部は(いろいろなスポーツの)実技があるし、君は不器用だから。本を読むのが好きなようだし文学部へ行ったらどうだ」と勧められたのです。

 それで陸上競技部に在籍しながら、大学3年までは文学部の学生として頑張っていました。3年生、21歳の時に(1982年ニューデリーで開催の)アジア大会で、初めて日本代表に選ばれ、400メートルで金メダルを獲得しました。そこで将来どうしようかなと考えた時に、スポーツ系の仕事に就きたいと考えるようになりました。それで体育学部に編入しました。

 ですから、大学入学後の3年間はスポーツ科学的な知識や情報がほとんど無い中で陸上をやっていました。私の恩師、宮川千秋先生(体育学部教授)も若く、試行錯誤をしながらむちゃくちゃに練習をやらせた時代でした。私はわけもわからず3年間、とにかくボリュームのある練習をしていました。結果、記録は伸びて日本記録も出して。

 宮川先生は、私の強さについて、他の人に「文学部なので、余計な知識がないから、やれと言ったことをへりくつも言わずに100%素直にやる」と語っているのを、聞いたことがあります。ですが、そこで自分には知識がないということにも当然気がつくわけです。これまでは良かったけれど、今後もそういうわけにはいかないと思って、体育学部に編入してみようと考えたのです。

 体育学部に来てから、スポーツ科学の知識が入ってくる。積み上げた土台に磨きを掛けるというタイミングがちょうどぴったり合ったということです。「心、技、体」ということで言えば、「体」の部分を、余計な知識無しに、きっちりとかなりの練習量で追い込んで、そこに体育学部で得た「技能」が混ざり始め、必然的に練習の量は減るけれど密度が濃くなってくる。

 自分自身は400メートルという競技をやっていて、なぜ400メートルは苦しいのか、わかりませんでした。それがスポーツ生理学の授業を受けると、エネルギー代謝系の話の中で、疲労物質が出るのだと。時間的には40秒で最大になるのだと。それで「なるほど」と思うわけです。そういう例が増えていって、自分がこれまでやってきたことに対して「合点だ」となった。それで自分で考えてやるようになって、壁を破って記録がまた伸びていく。体育学部の授業を受けることによって「なぜ坂道を走るのか」「200メートル走と、400メートル走と、600メートル走の違いは何か」ということを考えて取り組むようになりました。

 --学生生活の思い出を教えてください。

 毎日が楽しくてしょうがなかった。最も練習をしている時は、近隣のゴルフ場で早朝5時過ぎから1時間半ほど走って、授業中はノートに400メートルトラックを書いてその上を鉛筆でなぞりながら午後の練習のシミュレーション、頭の中では走っています。その後は陸上競技部の練習で走って。家に帰ってから補強三昧。補強というのは器具を使わず自分の体重を使った腕立て伏せ、腹筋などのトレーニングです。単純でしたから、「400メートルだから、腹筋は400回やろう」とか。覚醒中は常に走ることを考え、できることを実践していた時代でした。それが楽しかったのです。

 でも本当に楽しかったのは、体育学部に編入してからです。編入してみたら「仲間」がうじゃうじゃいるという感じで。多くの先輩・仲間と意気投合しました。大学生活はこんなに楽しいのかと思っていました。24時間フルに燃焼していました。理想を他に求めてしまったら駄目だと思っているので、今自分がいるところが一番理想に近いところであり、そうなるように自分が努力していかなければならない、と思っていました。陸上競技を中心とした、仲間や先輩や、大学の授業やその他の生活も含めて、夢のような出来事でしたね。今思うと。

 --一番思い出に残る大会・レースは。

 結果だけ見れば、92年のバルセロナ五輪が8位入賞ということでもあるのですが。ただ、やはり(前年の)東京の世界陸上が大きかったと思います。ファイナル(決勝)という場所が「夢の舞台」から、だんだん自分の目標に変わっていってそれを達成した。それも、かなり戦略的に取り組んでいって達成できた。

 東海大学の教員として採用になり、88年4月の教員懇親会の席上で、現副学長の山下(泰裕)先生と話をしました。大学で教べんをとるということへのプレッシャーがありましたから、現役の選手でいるということは早々に終わりにしなければならないというようなことを話しました。すると、山下先生から「まあ、そういう考え方もあるけれど、今しかできないことがあるから。よく考えた方がいいですよ。挑戦することをやめたら、次にもう一回五輪へ行くというチャンスは二度と回ってこない」とアドバイスをいただきました。

 その年、27歳でソウル五輪に出場して、8位までが決勝に残れるところで9位。ソウルでは大きな目標だった45秒台の壁を破って44秒90を出しました。100メートル走者で言えば9秒台に相当します。どこの国へ行っても「400メートルで44秒台」というと「おおっ」という反応が帰返ってくるタイムです。その記録を達成できたという充実感と、決勝を逃したという悔しさ。次の五輪では31歳になる。社会人としても教員としても、この4年間仕事を身につけて、意識をもっと高めていかなければいけない時にいいのかなと。そんな時に山下先生の話を思い出して、挑戦を決意しました。

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