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月刊パラリンピック

証言 1964年東京パラリンピック/上 傷痍軍人・青野繁夫 希望と誇りの銀メダル

1964年11月8日、東京パラリンピックの開会式で力強く選手宣誓をする青野繁夫

 1964年東京パラリンピックに関する証言は、戦後日本の復興を世界に示す国家プロジェクトとして実施された同年の東京五輪に比べて、わずかしか残されていない。2020年東京パラリンピックを控え、64年大会に関わった人々を訪ね、開催意義や残された教訓、次代へのレガシー(遺産)にまつわる体験談を拾い集めた。まずは64年大会日本代表の傷痍(しょうい)軍人、故・青野繁夫の実弟が語る秘話から歴史をひもとく。【高橋秀明】

     深い緑の茶畑が一面に広がる静岡県掛川市郊外。JR掛川駅から車で15分ほどのところに青野の生家はある。今もそこで暮らす弟の行雄さん(91)は、青野の没後、引き出しの奥に眠っていたという2個の銀メダルを前に、兄の半生を語り始めた。

     青野に突然の召集令状が届いたのは、地元静岡の本川根小教諭だった41年のことだった。「快活な性格で行動力があり、頭もよく切れた」という頼りがいのある教師だったが、中国に出征後の43年5月28日、揚子江支流の渡河作戦中に機銃掃射を受ける。

     「右腰に銃弾2発を受けたと聞いた。1発は貫通、もう1発は背骨に当たった。当時はそれほど戦況が不利じゃなかったから、障害を負っても後方に送って生き延びることができた。もっとひどい時なら、ほうっておかれたかもしれない」

     国内に戻って入院した青野はそのまま終戦を迎えた。

     「銃弾の破片が脊髄(せきずい)近くに残ったままだった。摘出できない場所だった。痛みがひどく、夜中によく泣いている声が聞こえた。家計も苦しく、お茶、お米を持って行ってようやく鎮痛剤を注射すると、多少はよくなったが、痛みは続いていた」

    兄繁夫の思い出を語る行雄さん=高橋秀明撮影

     行雄さんは戦時中の出来事を話しているうちは比較的穏やかだ。表情が曇るのは、むしろ戦後の話をする時だ。

     青野は地元の女性と結婚後、52年に国立箱根療養所(現国立病院機構箱根病院、神奈川県小田原市)に入所した。「家の中に閉じこもって竹細工をやって暮らしを立てていた。師範学校の同級生は中堅どころとして活躍しており、本人は取り残されたと感じていた。先生になってこれからという時だったから」

     ところが63年、東京パラリンピックの開催が正式に決まる。日本代表53人のうち、戦争で脊髄を損傷し下半身不随となった戦傷病者の療養所として建設された箱根療養所からも青野らが代表に選ばれた。

     64年11月8日、代々木オリンピック選手村の織田グラウンド。青野は開会式で選手宣誓の大役を務めた。同時に500羽のハトが大空に放たれた。さらに青野は競泳50メートルあおむけ自由形とフェンシングサーブル団体で銀メダルも獲得する。「村の人たちが応援に駆けつけてくれた。教師をしていた私は家内と子供2人を連れて、少し遅れてプール(東京都体育館屋内水泳場)に駆けつけた。でも誰が誰だか分からないうちに、あっという間に終わった。選手宣誓も後から知った」。当時を懐かしそうに振り返る行雄さんに大会の詳細な記憶があるわけではない。ただ兄の表情の変化だけは、脳裏に焼き付いている。

    青野が獲得したフェンシングサーブル団体(左)と競泳50メートルあおむけ自由形の銀メダル

     「パラリンピックの後は、兄の表情が生き生きとするようになった」

     大会の公式報告書で青野はこんな思いをつづっている。「自分自身の忘れられた可能性を一つ試してみようなんて了見にもなって、柄にもなく希望を持った」

     国立の戦傷病者史料館「しょうけい館」(東京都千代田区)の木竜克己学芸課長は「当時、箱根療養所に入院していた人たちの存在は、あまり知られていなかった。竹細工や時計修理の仕事をしていたが、社会とは隔絶していた。青野さんはパラリンピックがきっかけとなり、人として生きがいを取り戻すことができたのではないでしょうか」という。

     青野は74年、帰郷した。「体の調子もよくなり、地元の人たちと囲碁をしたり、手だけで運転できる車に乗って妻とドライブに行ったり」。行雄さんの目には幸せな晩年を送っているように映った。

     20年に再び東京でパラリンピックが行われる。64年東京パラリンピックから56年--。青野は87年に66歳で他界し、現役の選手たちにも戦争の影は見られない。しかし海外にはアフガニスタンやイラクなどの紛争地で傷ついたパラリンピック選手がいる。戦争とパラリンピックは、切っても切れない関係にある。


     ■ことば

    戦争とパラリンピック

     パラリンピックは1948年に第二次世界大戦の負傷兵が入院する英国のストーク・マンデビル病院で行われた車いすの障害者によるアーチェリー競技が起源。同病院のルートビヒ・グトマン博士は戦傷者のリハビリにスポーツを積極的に取り入れた。近年では、欧米各国が元兵士を育成してパラリンピックに出場させる仕組みを制度化。元兵士の心身の回復に重要な役割を果たす一方で、身体能力に優れた元兵士がパラリンピックの人材供給源となっている現実もある。


     原則、第2火曜日に掲載します。

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