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一語一会・私が出会った「昭和の怪物」

山本五十六と戦争/2 山本五十六はなぜ三国同盟に反対したのか=保阪正康

山本五十六

秘書官が見た「海軍内部」の真実

 昭和の時代に存在を刻んだ「怪物」たちを、現代史研究の第一人者がいま新たな問題意識で論じ直す好評連載。今回は、海軍軍人で連合艦隊司令長官だった山本五十六の第2回。山本が三国同盟に反対した理由と、それによって受けた迫害の実態にさらに迫る。(一部敬称略)

     前号で昭和十三(一九三八)年から十四年八月までの三国同盟に傾斜する陸軍と、それに抗した海相の米内光政、海軍次官の山本五十六、海軍省軍務局長の井上成美(しげよし)のトリオの動きを追った。

     この三人は反三国同盟の主要メンバーであり、とくに陸軍側は山本の反対論に怒り、肉体的な威圧をかけ続けた。そのあたりの状況について、当時米内の秘書官であり、山本、井上も補佐する役を担っていた実松譲(さねまつゆずる)から詳細に話を聞いたのだが、前号ではその大まかな動きを紹介するにとどまった。そこで今回はより詳しく、どういうときにどのような反対論をぶつけたのか、その対立の状況を実松の目を通して語っておきたい。昭和五十年代の半ばだが、私は実松と会って何度も海軍の目から見た「昭和陸軍」や「太平洋戦争」を確かめた。とくに実松は、対米戦争の開戦時には、ワシントンで駐在武官の生活を送っていたから、この期の史実にはかなり詳しかったのである。加えて実松は冷静に事態に向きあい、必要なときにはメモを取って正確に残していた。

     まず実松は、米内、山本、井上の海軍のトリオがこの期をどのように捉えていたかを、淡々と証言した。内容は私が実松に会っていた折に刊行された実松の著書『あゝ日本海軍』にも書かれているが、改めて紹介しておきたい。

    英国・米国を敵にしてはならない

    「陸軍は支那事変を勝手に始めて、国策を一方的にこの戦争に向けて変えていったのです。そしてそれがうまくいかないというので、当初はドイツは中国を支援していたのをやめさせようと画策して、日独伊防共協定を三国同盟という軍事同盟に変えていこうとしたわけです。駐独の武官であった大島浩がベルリンでナチスの幹部らにその意向を伝えたんです。それでドイツも少しずつその方向に舵(かじ)を切っていったわけです。私は昭和十年代の日本の過ちの大半は陸軍にあると思っていますよ」

     と、東京・小金井の自宅の応接間で実松はゆっくりと話した。私はそのころは昭和史そのものを学びつつある段階だったが、実松はそんな私に、ときに図を描きながら、陸軍や海軍の人間関係などを説明してくれた。実松の陸軍嫌いは海軍の軍人に共通のものであり、米内、山本、井上にもその傾向があったことを暗ににおわせた。あえてつけ加えておくが、このトリオを実松は、「トリオ提督」と評し、「共通の信念」を共有していたのであり、自分は後輩としてこれに列するタイプでありたい、と願っていたこともわかった。

     三国同盟交渉は、ある時期からドイツが熱心になった。ヒトラーの戦略にこの同盟が組み込まれることになったからであろう。前号でも語ったようにこのトリオが誕生した昭和十三年は、ドイツのその戦略を疑い、昭和十四年九月一日にドイツが電撃的にポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まってからは、「わが国はどんなことがあってもドイツ国と軍事同盟を結ぶべきではない。英国、米国を束にして敵に回してはいけない。それは日本の国益にはならない」との立場を確認した。トリオ提督は、その点では一歩も譲らないとの意思を確立していた。

     確かに陸軍はドイツに異様なほど熱心に近づいた。それをよく示したのは、昭和十三年八月の五相会議だったと実松は口にしていた。陸軍省の一将校が大島のもとに行き、そこでドイツ側から示された案を直接持参して日本に持ち帰った。その前に開かれた五相会議では、陸相の板垣征四郎が、外相の宇垣一成、蔵相の池田成彬(しげあき)、それに海相の米内などを前に、「陸軍は防共協定を軍事同盟としていきたい」と公然と主張したときに、宇垣も池田も、そして米内も口を揃(そろ)えて、「そこまでの関係にすべきではない。それでは日本はヨーロッパ情勢にひとつの姿勢でしか対応できなくなる」と反駁(はんばく)した。そういう事実を語りながら実松は、とくに陸軍はドイツから持ち返ったドイツの案に賛成せよ、と詰めよったが、誰も同調しなかったと指摘している。

     問題だったのは、ドイツ案の中に「締約国の一国が締約国以外の第三国より攻撃を受けたる場合においては、他の締約国はこれに対し武力援助を行う義務を有する」とあった点だった。これには海軍は猛然と反発したという。トリオ提督の信念に根本から反するからだった。しかし海軍内部にもこのトリオ提督に抗して、英国、米国と対決しても新たに世界戦略を構築すべきという一派も少なからず存在したし、彼らは陸軍と密(ひそ)かに連絡をとり、トリオの足元を揺るがす勢力になっていったのである。

     こうした状態が続いて、昭和十四年は日本国内でも三国同盟をめぐっての確執が続いていった。近衛内閣から平沼騏一郎内閣にかわって、事態はさらに複雑になった。実松は、もっともこの条約に反対した山本、井上のうち、井上が戦後になって著した私稿(「思い出の記」)の中で、次のように書いているといって、その稿の写し(実松著に収録)を見せてくれた。

    「昭和十二、三、四年にまたがる私の軍務局局長時代の二年間は、その時間と精力の大半は三国同盟問題に、しかも積極性のある建設的な勢力ではなく、唯陸軍の全軍一致の強力な主張と、これに共鳴する海軍若手の攻勢に対する防禦だけに費やされた感あり」

     まさにこのとおりだったですね、と実松は認める。さらに井上は、次のようにも書いていたのである。

    「当時の(軍務局)一課長は岡敬純(たかずみ)大佐、主務局員は神重徳(かみしげのり)中佐、いずれも枢軸論の急先鋒(せんぽう)で、既に軍務局内で課長以下と局員の意見が反対なのだから、まことに始末が悪い」

    「理」では通じない「別世界」がある

     実松によれば、海軍内部の陸軍に呼応する勢力が増えて、まさに下克上状態だったというのである。そういう動きが昭和十四年に入ると極端な形をとることになったというわけだが、そこで米内よりも山本がターゲットになったのは、山本は海軍の意向を代表する形で、米内が立場上発言できない内容を山本が行ったからである。山本はもとよりそれに対応しなければならない場面が多くなったと、実松は証言している。

    「三国同盟になぜ反対するのか、と山本さんを脅しにくるのは初めは右翼団体でしたが、やがていろいろな地方の議会の議員や市町村長なども来るようになりました。聖戦貫徹議員連盟などといった時流に迎合したような団体に入っている地方議員もいましたよ。そういう連中の抗議書の類いはすべて私の守備範囲でしたからね、こうして筆記して残しています。こういうふうに、『日独伊軍事同盟ハ皇国日本ノ至上使命ト現前世界ノ客観情勢ガ要求スル必須緊要ノ国策タリ』といった内容です」

     実松は、自らの著作(『あゝ日本海軍』など)でこうした経緯を紹介している。山本は単にテロでの死を覚悟しただけではなく、机の上を整理したり、まさにいつ死んでもいいように身支度を始めていた。このころに遺言(「述志」)を書いていた節があった。昭和十四年五月三十一日の日付になっていたという。

     ここで私たちが改めて注目しなければならないのは、ドイツがポーランドに攻めいって第二次世界大戦が始まったあと、日本社会の世論、あるいはトリオ提督を脅しにくる右翼から地方の市町村長、それに議会人たちは、一様に「海軍の弱虫!」「臆病海軍」と謗(そし)ったというのである。「腰抜け・山本次官」とは海軍部内でも呼ばれるようになったそうだ。

     地方からの上京組は、何かの団体が交通費などを提供している節もあり、加えて抗議の口ぶりも「日本精神」とか「神ながらの道」といった常套句を用いるというのであった。そこで実松はこれはどういうことか、と尋ねると何も答えられない。山本や米内への報告書には、「数件質問ヲナセシ処、何ニモ知ラズ」と書いたという。

     国会議員が数人で訪ねてきて、「海軍の弱虫!」と罵声を浴びせたときに、実松も激高気味にどなり返したそうだ。

    「あなた方は国民の選良をもって任じている人びとでしょう。海軍は日本の海軍であり、あなたたちの海軍でもある。その海軍を、弱虫だ、腰抜けだ、といって罵倒するだけでいいのか」

     海軍はいつでも動員のできる組織になっている。陸軍はどうなのか。あなたたちは何も知らないで罵声を浴びせるとは何ごとか、とどなったというのだ。実松は当時まだ三十代であった。

     相手方の態度によっては、つい言葉も激する。ここは人間修行の場だ、とひたすら耐えるよう諭されていたというのであった。

    「天にかわって奸賊(かんぞく)山本を倒す」といった斬奸状を作成して海軍部内に撒(ま)く。そんな右翼団体も現れたというのであった。陸軍の幕僚たちは、ときには反英・反米運動のデモを右翼に命じて、内務省の警保局にこの種のデモは取り締まらないでくれ、と言ったそうだ。むろん内務省の官僚がそんなことはできないと断ると、「内務省は海軍の手先か」とどなったりしたというのであった。

     山本を守るために横須賀鎮守府から一個小隊の陸戦隊が送られて、海軍省の警備にあたった。山本の執務室の前には、ピストルで武装した隊員が護衛することになったそうだ。そういう緊迫した情勢の中で、山本は三国同盟に反対を続けた。そのことで、山本に代表される海軍内部の親英米派が、しだいに孤立していく状態にもなった。

     山本は、この三国同盟締結までの期間に幾つかの疑問を持った。それはこの国では「理」では通じない別世界があるということだった。思いつきだけで発言し、口から出任せの感情的表現で他者を傷つける、そのような日本人の性格に嫌気がさしたことは充分にうなずけた。

    憲兵を使って山本を調べた陸軍

     山本が海軍次官のポストを離れたのは、昭和十四年八月だが、およそ二年九カ月の次官生活であった。山本にとっては決して愉快な時代ではなかったであろう。もともとアメリカで二度にわたり駐在武官の生活を送ったために、山本はクールな性格も持つ。さらに昭和十年十二月に開かれた第二次ロンドン海軍軍縮会議での予備交渉代表団の一員であった。この予備交渉では、英国や米国に対して堂々と日本の国情を説明した。偽りのない、事実だけを伝えていく、自らに与えられた権限の枠内で要領よく説明していることでは他の誰にも負けなかった。

    「日本には有能で紳士的な軍人がいる。それは山本五十六だ」

     という噂(うわさ)は広がり、まさに山本は日本海軍の好印象を代弁する存在だった。

     その山本が三国同盟では、まさに地に堕(お)ちた存在になった。それは山本の「理」にもとづいた論理や戦争観を根本から否定する内容だったからである。山本はこういう厄介なポジションから変わりたいとの意思が実って、連合艦隊の総司令官として転属になるのだが、このことが太平洋戦争への伏線ともなった。ハワイへの奇襲攻撃を選ぶプロセスには、絶望的な戦いを少しでも落ち着いた方向に向けるのがいいのだが……と判断しての山本なりの海軍内部で得た戦略であった。

     山本は次官時代に、新聞記者に対しては時局がどのようになっているか、海軍から見た国際社会、日本社会の現実を率直に解説した。それは同時に自らが、こうした記者たちの前でどのように振る舞えば理解してもらえるのかといった訓練にもなった。こういう会見では、三国同盟についての陸軍の判断を明確に批判もしている。

     そういう山本を、陸軍は憲兵を使ってあらゆることを調べている。出入りする料亭ではどんな食事をするか、どういう遊びをするのか調べ回ったという。当時『東京日日新聞』の記者だった戸川幸夫(戦後は作家)は、『人間提督 山本五十六』という著書の中で、「憲兵はゴミ箱を漁(あさ)る野良犬のようににおいを嗅ぎまわった」と書き、護衛の名目のもと山本の行く先々について回った。山本は新聞記者たちとの集まりで、「海軍が陸軍に劣っている点は、憲兵を持っていないことだよ」と自分を監視する陸軍の主流派を皮肉っていたのである。

    (以下次号)

    (ノンフィクション作家・評論家 保阪正康)

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